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川田熊太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川田 熊太郎
(かわだ くまたろう)
人物情報
生誕 (1889-03-15) 1889年3月15日
日本の旗 日本
香川県大川郡長尾村
(現:さぬき市
死没 (1981-03-31) 1981年3月31日(92歳没)
居住 東京都世田谷区
出身校 東京帝国大学
配偶者 松本亦太郎息女
子供 川田純(元徳島大学教授、薬学)
学問
研究分野 哲学
仏教学
比較思想学
研究機関 日本女子大学
東京大学
東京文理科大学
駒澤大学
学位 文学博士(東京帝国大学・1941年)
称号 駒澤大学名誉教授
主な業績 東西思想の比較研究
主要な作品 『プラトン弁証法の研究』
『仏教と哲学』
『哲学要論』
影響を受けた人物 空海
ショーペンハウアー
学会 比較思想学会
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川田 熊太郎(かわだ くまたろう、1899年3月15日 - 1981年3月31日[1][注釈 1])は、日本の仏教学比較思想学者。

経歴

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1899年、香川県(旧:大川郡長尾村前山来栖。現:さぬき市前山)生まれ。1922年に東京帝国大学法学部を卒業したが、同じ頃に哲学を研究したいとの希求が高まり、同年、東京帝国大学文学部に入学し、1925年同文学部哲学科を卒業し、直ちに同大学大学院に入る。1927年日本女子大学教授に就任し、西洋哲学、特にプラトンの研究に傾注した[2]

1941年、『プラトン弁証法の研究』(河出書房、1940年刊)によって東京帝国大学から文学博士の学位が授与された[3]。同年、東京文理科大学助教授に、1943年には同大学教授に任ぜられて、戦後にも及び、1950年には東京大学教養学部教授に就任して、比較哲学の講義や東西思想の比較研究を行った。1959年に東京大学を定年退官した後も、駒澤大学仏教学部教授として教鞭をとり、同大学を定年退職するとともに、駒澤大学名誉教授の称号を授与された[2]

著書

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  • ギリシャ哲学研究』 河出書房、1946
  • 『哲学小論集 文化と宗教』 河出書房、1948 「文化と宗教」レグルス文庫  
  • 倫理学』 世界書院 1951
  • 『仏教と哲学』 平楽寺書店 1957
  • 『哲学要論』 東京大学出版会 1958
  • 『哲学とは何か』 至文堂 1961 学生教養新書

共著

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論集等

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  • 川田熊太郎論集 全3巻 公論社 1985.4
  • 川田熊太郎比較思想研究 三枝充悳編 法蔵館 1985.3

翻訳

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  • 世界大思想家選集 第8 デカルト篇 第一書房、1940 

論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 没年に寄稿された同じ筆者の追悼文には死没日が4月1日と記されているが[2]、後の1989年の寄稿文において訂正されたと考えられる。

出典

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  1. ^ 中村元「日本における比較思想の展開――弘法大師より始まる」『比較思想研究』第16号、大正大学、1989年、81頁、NAID 110000311979 
  2. ^ a b c 中村元「川田熊太郎博士を偲ぶ」『比較思想研究』第8号、比較思想学会、1981年、3-8頁、NAID 110000312604 
  3. ^ 川田熊太郎『プラトン弁証法の研究』 東京帝国大学〈文学博士(学位授与番号:報告番号不明)〉、1941年。NAID 500000491024https://id.ndl.go.jp/bib/000010637907 

参考文献

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  • 著書記載の略歴