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工藤治人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
くどう はると

工藤 治人
生誕 1878年11月16日
山口県豊浦郡勝山村(現・下関市
死没 (1963-10-13) 1963年10月13日(84歳没)
出身校 京都帝国大学
職業 実業家
肩書き 日産重工業社長
任期 1944年9月 - 1945年6月
前任者 淺原源七
後任者 村山威士
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工藤治人(くどう はると、1878年11月16日[1] - 1963年10月13日[2])は、日産自動車の元社長。

年譜

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解説

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日本独自のたたら製鉄の近代化に大きな足跡を残した。具体的には、砂鉄木炭を回転式電気炉に入れて海綿鉄を製造する方法を開発し、旧日本軍の軍需用特殊鋼原料や日本で初めての本格的な高速度工具鋼製造普及に応用した。日本のものづくりの精神として「誠實生美鋼」という言葉を残し、日立金属安来工場には自筆の書が残されている。

脚注

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  1. ^ a b 『大衆人事録 第3版 ア-ソ之部』帝国秘密探偵社、1930年、ク4頁。
  2. ^ 『昭和物故人名録 : 昭和元年~54年』日外アソシエーツ、1983年、p.179。
  3. ^ 公職追放の該当事項は「日産重工業取締役社長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、292頁。NDLJP:1276156