市岡忠吉
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文6年(1537年)[注釈 1] |
死没 | 慶長5年7月13日(1600年8月21日)[1] |
別名 | 五左衛門[1] |
戒名 | 清心[1] |
墓所 | 府中車返村本願寺[1] |
主君 | 甲斐武田氏→徳川家康 |
氏族 | 市岡氏 |
父母 | 父:市岡正則[1] |
子 | 忠次[1] |
市岡 忠吉(いちおか ただよし)は、戦国時代の武士。はじめ甲斐武田氏、のち徳川氏家臣。
経歴・人物
[編集]初め武田信玄に仕えるが、武田家没落後の天正16年(1588年)駿府にて徳川家康に拝謁し、以後徳川家に仕える[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐では信濃国飯田城を守衛する[1]。同年武蔵国府中にて300石を賜い天守番を勤める[1]。
経歴には、名を宗重(むねしげ)といい、はじめ美濃国岩村城主遠山左衛門佐某のもとにあり、のち信濃国下條兵庫助某の家に寓居。兵庫助の死後、家康の命で飯田城を守護し、天正14年(1586年)浜松にて家康に拝謁し、領地を賜った。とする説もある[1]。