常磐津兼太夫
常磐津 兼太夫(ときわづ かねたゆう)は、常磐津節の太夫の名跡。
初代
[編集]後の2代目常磐津文字太夫。
2代目
[編集](宝暦5年(1755年) - 享和2年6月16日(1802年7月15日))通称「大橋の兼太夫」。号は恵橋。
2代目文字太夫の弟。前名を常磐津大和太夫。天明7年(1787年)2代目兼太夫を襲名。寛政11年(1799年)2月に跡目相続争いで破れ兄から破門され、まもなく常磐津吾妻国太夫を名乗って独立したが、刺客のために横死を遂げる。
3代目
[編集](宝暦11年(1761年) - 文化11年7月27日(1814年9月10日))本名は江戸屋兼吉。通称は「本芝の鮪の兼太夫」。号は芝中、松寿斎。
2代目兼太夫の門下で2代目常磐津組太夫、常磐津綱太夫を経て、文化6年(1809年)に3代目兼太夫を襲名。
4代目
[編集](生没年不詳)
薩摩の生まれ、3代目兼太夫の門下。3代目組太夫、2代目綱太夫を経て1819年に4代目を襲名。1833年に3代目の号であった松寿斎を襲名し隠居する。
5代目
[編集](寛政元年(1789年) - 文久元年8月15日(1861年9月19日))
1837年に5代目兼太夫を襲名。晩年に松玉斎を襲名し隠居する。
6代目
[編集](文政5年(1822年) - 明治2年2月29日(1869年4月10日))
清元で清元琴太夫を名乗っていたが芸が見込まれて4代目常磐津文字太夫の養子になった。天保8年(1837年)に4代目常磐津小文字太夫、文久2年(1862年)に5代目文字太夫を襲名、故あって離縁後に6代目兼太夫を襲名。
7代目(先代)
[編集](明治19年(1886年)10月12日[1] - 昭和19年(1944年)8月18日)本名は渡辺徳次郎。
東京・四谷出身[1]。素人出身で2代目常磐津和佐太夫の門下で常磐津小吾妻、常磐津麒麟太夫を経て、玄人となり大正15年(1926年)に7代目兼太夫を襲名。墓碑には「六代目」と記されている。
7代目(当代)
[編集]常磐津兼太夫 (7代目)の項参照。
脚注
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