常英
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常 英(じょう えい、生年不詳 - 476年)は、北魏の人物。文成帝の乳母の常氏の兄にあたるが、外戚に準じて重用された。字は世華。本貫は魏郡鄴県。
経歴
[編集]渤海郡太守常澄と許氏(博陵郡君)のあいだの長男として生まれた。453年(興安元年)11月、文成帝の乳母常氏は保太后として立てられた。454年(興安2年)3月、保太后常氏は皇太后となった。このため太后の兄の常英は肥如県令から散騎常侍・鎮軍大将軍に抜擢され、遼西公の爵位を受けた。弟の常喜は鎮東大将軍・祠曹尚書となり、帯方公に封じられた。太后を除く3人の妹はそれぞれ県君に封じられた。妹の夫の王覩は平州刺史に任じられ、遼東公に封じられた。常英の父祖にも官爵を追贈され、遼西に廟が立てられた。
455年(太安元年)、常英は侍中・征東大将軍・太宰となり、爵位を遼西王に進めた。弟の常喜は左光禄大夫となり、燕郡公に改封された。従兄の常泰は安東将軍の号を受け、朝鮮侯に封じられた。457年(太安3年)、太師・評尚書事・内都大官を兼ねた。文成帝が東巡を計画すると、常英は遼西の黄山に行宮の建設を命じられた。459年(太安5年)、常太后の母の宋氏が遼西王太妃となった。460年(和平元年)、常太后が死去した。常喜が洛州刺史となった。天安年間、常英は平州刺史に任じられた。後に不正蓄財の罪で敦煌郡に流された。
476年(承明元年)、都の平城に召還されて、官に復帰した。まもなく死去した。諡は平といった。