幣久良神社
幣久良神社 | |
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稲荷神社跡 | |
所在地 | 大阪府茨木市耳原3 |
位置 | 北緯34度51分15.9秒 東経135度33分46.1秒 / 北緯34.854417度 東経135.562806度 |
主祭神 | 倉稲魂命 |
社格等 | 延喜式内社 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 9月9日 |
幣久良神社(みてくらじんじゃ)は、大阪府茨木市にあった神社。地元では「てくらじんじゃ」と呼ばれる。延喜式神名帳に『摂津国 島下郡 幣久良神社 鍬靫』と記されている式内社。明治41年(1908年)に安威の式内社である阿為神社に合祀された。
歴史
[編集]勧請年月不詳。元禄11年(1698年)、幣久良の森から百舌鳥野小松原の瑠璃光院の西に移した[1]。『高反別記』に「手鞍山の坤に耳原村上野村の墓所があるので、これを忌み、元禄10年、大坂御奉行所へ願出て薬師堂の松原へ社を移す」[2]とある。『八雲御抄』に「月夜には手くらの杜もくらからすましてしらゝの濱いかならん」と詠まれている。
幣久良山の東の池は神輿を埋めたので御手洗池と呼ばれた。元禄の社殿修築の際、池の木を使おうとしても動かないので神木としたが、後に畑にするために伐採した村人が病死したので、延享元年(1744年)に神木のあったところに祠を建てた[3]。
『摂津名所図会』に「耳原村にあり。鍬靱。『延喜式』に出づ。生土神とす。今稲荷大明神と称す。」とあり、 「幣久良神社現今境内之図」には、幣久良山、幣久良池(御手洗池)の東、西国街道の北、田地の中に反正天皇陵(鼻摺古墳)と履中天皇陵(耳原古墳)の間に鳥居・燈籠・拝殿・本殿が描かれ、文化3年(1806年)に作成された『山崎通分間延絵図』にも履中帝陵に稲荷社と薬師が並んでいる。
明治12年(1879年)の『耳原誌』には「別社 本村の西方幣久良山の麓にあり。稲荷神社・清森稲荷神社・幣久良山稲荷神社。村社(幣久良神社)の別社なれば倉稲魂命を祭れり。」[4]とあり、旧地を別宮として祀っていた。
この地は長くテイジンの敷地であったが、現在、セキスイによる宅地開発で削平され面影はない。幣久良山裾に稲荷神社跡の石碑(白髭大明神、大正11年4月健之)と、瑠理光院にあった薬師堂が耳原自治会館前に遺っている。