コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

平井卯輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平井 卯輔
生誕 1890年6月10日
日本の旗 日本 山口県
死没 (1962-07-27) 1962年7月27日(72歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

平井 卯輔(ひらい うすけ、1890年明治23年)6月10日[1] - 1962年昭和37年)7月27日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

[編集]

1890年(明治23年)に山口県で生まれた[1]陸軍士官学校第25期卒業[1]1939年(昭和14年)3月9日陸軍騎兵大佐進級と同時に熊本連隊区司令官に着任[2]1940年(昭和15年)8月に捜索第56連隊長(西部軍第56師団)に転じ[2]太平洋戦争に出征[1]ビルマ侵攻に出動し、1942年(昭和17年)3月24日ラングーンに上陸[3]。連隊は先遣隊として3月30日にトングー、4月11日にパサウン、4月29日にはラシオを占領し[3]5月4日にはバーモを無血占領する偉勲を立てた[4]。ラングーンから70日間で1700 kmの行程を駆け抜け、第15軍司令官より感状が授与された[4]。その後留守第56師団司令部附を経て[5]1943年(昭和18年)12月に戦車第4旅団長(関東軍第1方面軍戦車第2師団)に転じた[1][2]

1944年(昭和19年)3月1日に陸軍少将に進級し[2]4月13日第86師団司令部附となり[6]5月10日東京連隊区司令官に就任した[1]1945年(昭和20年)3月31日に東京地区司令部附となり[7]7月1日東京師管区兵務部長に就任し[8]、終戦を迎えた[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 福川 2001, 612頁.
  2. ^ a b c d 外山 1981, 342頁.
  3. ^ a b 新人物往来社戦史室 1994, 262頁.
  4. ^ a b 新人物往来社戦史室 1994, 263頁.
  5. ^ 第235号 昭和18年12月28日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120899400 
  6. ^ 第70号 昭和19年4月15日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120907100 
  7. ^ 第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120937900 
  8. ^ 第151号 昭和20年7月3日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120962300 
  9. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」22頁。

参考文献

[編集]
  • 新人物往来社戦史室 編『日本陸軍兵科連隊』新人物往来社、1994年。ISBN 4404021445 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026