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平井収二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平井 収二郎
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保6年7月14日1835年8月8日
死没 文久3年6月8日1863年7月23日
別名 通称:幾馬、徳助、収二郎、:義比、志敏、雅号:隈山
官位従四位
幕府 江戸幕府
土佐藩
父母 父:平井伝八直証(直澄)
兄弟 収二郎加尾
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平井 収二郎(ひらい しゅうじろう)は、幕末土佐藩士。

生涯

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1835年8月、土佐藩士(新留守居組格、三人扶持10)平井伝八直証(直澄)の嫡子として土佐郡井口村に生まれる。実妹は平井加尾で兄妹ともに坂本龍馬と交友があった[1]。平井家は、武市半平太や坂本龍馬、岡田以蔵など下士が占める土佐勤王党には珍しく、新留守居組格という上士階級に属している。 

1861年、武市を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿薩摩藩長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。

また、安政の大獄で処罰された水戸藩鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。

のち、土佐勤王党が構想する運営方針を藩が容れないのを憂慮し、青蓮院宮令旨を請いて藩政改革を迫る。しかし、前藩主山内容堂が青蓮院宮を問い詰めて実情を聞き出したことによって計画は失敗し、間崎哲馬弘瀬健太と共に切腹を命ぜられる。享年29(28とする説もある)。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[2]

高知市山手町には1935年(昭和10年)1月建碑の「平井収二郎先生誕生地」の碑がある[1]

著書

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  • 「隈山春秋」と「帰南日記」の著書がある。

関連作品

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映画
テレビドラマ
漫画

脚注

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  1. ^ a b 平井加尾住居跡”. 高知県立坂本龍馬記念館. 2022年11月25日閲覧。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6