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平井弥之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平井彌之助から転送)
ひらい やのすけ

平井 弥之助
生誕 1902年5月16日
日本の旗 日本 宮城県柴田町
死没 1986年2月21日(1986-02-21)(83歳没)
出身校 東京帝国大学工学部
職業東北電力副社長
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平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献した。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた[1][2]。平井彌之助とも書く。

生涯

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主な経歴は『土木史研究』第18号による[3]

松永安左エ門(右)とともに
1902年(明治35年) 宮城県柴田町に生まれる
仙台一中旧制第二高等学校卒業
1926年(大正15年) 東京帝国大学工学部土木工学科卒業
1926年(大正15年) 東邦電力(株)入社、(飛騨川)川辺発電所建設所長
松永安左エ門の薫陶を受ける
1941年(昭和16年) 日本発送電(株)引継入社 (奥日光)黒部工事事務所長・水力建設所長(栗山水力並びに川俣水力の建設所長)[4]
1942年(昭和17年) 7月、同社建設局調査部西部調査課長[4]
1943年(昭和18年) 12月、同社建設局大阪出張所土木部長[4]
1944年(昭和19年) 1月、同社建設局土木部第二課長[4]
1945年(昭和20年) 4月、同社建設局土木部土木課長[4]
1947年(昭和22年) 7月、同社本店土木部長[4]
1948年(昭和23年) 7月、同社理事[4]
1949年(昭和24年) 10月、同社建設局次長[4]
1951年(昭和26年) 東北電力(株)常務取締役建設局長兼土木部長
白洲次郎会長の下で只見川水力開発及び大型火力の導入に努め東北地区電源開発に挺身した
電源開発(株)の委嘱により国内最大水力の田子倉大プロジェクトの建設所長として建設にあたり、その後東北電力火力発電所の建設を指揮
1956年(昭和31年) 土木学会東北支部評議員(1958年(昭和33年)度まで)[5]
1959年(昭和34年) 土木学会東北支部長(本年度のみ)
1960年(昭和35年) 東北電力取締役副社長(1962年(昭和37年)退任)
1961年(昭和36年) 土木学会東北支部顧問(1964年(昭和39年)度まで)
1963年(昭和38年) 財団法人電力中央研究所理事・技術研究所長
1968年(昭和43年) 東北電力海岸施設研究委員会委員(1980年(昭和55年)8月まで)
1968年(昭和43年) 日本電気協会原子力発電所耐震設計技術指針 JEAG4601-1970 電気技術基準調査委員会委員(1970年まで)
1972年(昭和47年) 土木学会名誉会員[6]
1975年(昭和50年) 電力中央研究所理事・技術研究所長退任・顧問就任
1986年(昭和61年) 逝去(享年83)

栄典

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地震・津波に対する危機管理

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平井は次の例に見られるように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼千貫神社まで来た」と語っていたという[1]。だが、以下に示すように東北電力入社時点でその予見能力は完全だったわけではなく、八戸火力の浸水経験などもあり、女川での成功に至るまでの道は平坦ではなかったし、後述する敷地高の件がそもそも平井の発案であるか疑問も呈され、知見自体も原子力の耐震設計技術者には知られ始めていたことであった。なお、東北電力に入社した時点でかなり地位が高くなっており、設計の実作業は部下達に任せ、技術的な重要事項を指導・決定する場面が多くみられる。

  1. 大正末期から昭和初期、五大電力の一角であった東邦電力からキャリアをスタートしたが、土木課長であった鈴木鹿象に立地の検討の必要から送変電系統について教え込まれ、応用、実用化の手法、技術経営、事故調査などの示唆・薫陶も受けた他、学歴を問わず工夫や工手と呼ばれた熟練工にも教えを乞うた[7]
  2. 八戸火力発電所の建設(1956年(昭和31年))に際し、東北電力初の火力であり軟質地盤での初の工事でもあったが、同社建設局長だった平井は日本発送電時代尼崎火力発電所など軟弱地盤のサイトでの保守に苦労した経験から、大型ニューマチックケーソン(鉄筋コンクリート製の大型の箱舟)を導入した[8]。平井から設計を命じられた大島達治は「天然現象を根源までつき詰めて、自分の納得の行く迄見極めてから、周囲の地形・地質・気象に適合した計画・設計を進められ」「大胆にして細心」と評したが、1960年(昭和35年)チリ地震津波で同発電所は50cm浸水した。世界初の津波による発電所被災とされる[9]。送電線トリップにより電源喪失し、非常電源装置が起動したものの、本館床面に達する高波3回、岸壁を超すものが7回数えられ、護岸損傷、モーター・ケーブル・電源装置冠水などの被害を受けた。その後、非常用ディーゼル発電機は3階面へ移設された[10]
    電力中央研究所の後輩理事に当たる水鳥雅文はチリ地震の被害経験が、平井達により女川原発建設に活かされたのかも知れないと推定している[11]
  3. 新潟火力発電所の建設(1957年(昭和32年))に際し、地震による地盤の液状化を予測したものの、引き続き設計を担当した大島は先の八戸火力より更に大型となる超大型のケーソン基礎を計画したが、その根入れ深さに迷い平井の判断を仰いだところ、12mにするように即答されたという。最終的には平井の回答から更に3m足した15mで計画し、火力機器をその上に設置した[12]。1964年(昭和39年)の新潟地震のおりには地盤の液状化が10メートルに達し、その有用性が証明された[1]。なお、地震発生時に平井は東北電力最高顧問だったが、当時居住していた埼玉の自宅から大島に電話し「震災の調査というものは、警察の非常線を突破して先へ先へと行かなければ本当のことは判らない」と述べて会津経由で翌日に発電所に急行し、被害を確認したという。まだ存命だった松永安左エ門にも事の経過を逐一報告した[13]
  4. 仙台湾開発について、東北電力副社長時代、日本港湾協会の定期刊行物『港湾』1960年10月号掲載「夢の仙台湾を語る」という鼎談で語っている。対談日は8月18日で、5月のチリ地震津波後であるが、商業港として塩釜港の開発を求めたり、石巻港の一角に火力発電所を要望してはいるが、津波対策についての発言はない。なお、『港湾』同号にはチリ地震津波に関係する運輸省による記事が掲載されており、対策についても言及されている。また、加藤愛雄(東北大学理学部地球物理教室教授)の手になる「津浪の跡をたづねて」も掲載されており、女川港の被災の様子をデータと写真を交えて紹介しつつ、「宮城県で最も注意しなければならないのは明治29年や昭和8年の大津浪よりも、もっと震源が南にある地震による津浪でこの時は津浪の波高はもっともっと大きくなる事が予想される」と明記されており、櫻井よしこが記した海岸施設研究会議事録の文言(後述)に語順まで酷似している。貞観地震、慶長三陸地震を重視し、三陸を津波常襲地帯と位置付ける姿勢についても同様である[14]。(なお、一般的には自身が掲載された専門雑誌は発行元から送られてくることが多い)。先の水鳥のような指摘もあった[11]が、その後両港とも港湾開発を進めたものの、東日本大震災では浸水被害を出した。
  5. 東北電力女川原子力発電所の建設に際して「海岸施設研究委員会」(1968年7月~1980年8月)に招聘され、貞観地震級の大津波に備えるために敷地を14.8メートルの高台に設けることを強く主張したとされる。ただし、東北電力が2011年9月に原子力安全委員会に提出したスライド文書「女川原子力発電所における津波評価・対策の経緯について」では、この委員会について「社内での比較検討の結果,敷地レベル案としてO.P.+15m程度が最適と考えたが,津波に対する安全性等について専門的な視点で議論いただくために設置」と述べており、誰が海抜を高くするように主張したかや、松浦晋也等が記載している海抜12m案などについては言及していない[15](後述の通り、櫻井よしこが確認した会議録も同様の紹介)。伊藤誠はこのスライドについて、順序として社内での検討結果として何らかの理由により15mという数字がまず挙げられ、その妥当性について海岸施設研究委員会において検討したということ、東北電力が公開した経緯のスライドに平井の名は出てこないことを指摘している[16]
    平井の上記「強硬な主張」の対象についてだが、大島は「貞観地震の考慮」としており、この話を元にした報道・論評も同様の表現をしている。一方尾形努のように「15mの敷地への設置」に力点を置いたものも存在する[17]。ただ一人等の形容表現を伴ったものもあるが、研究会の座長であった本間仁東洋大学教授も「運転コストが高くても高台にすべき」と提言していたことが遺族により明かされている[18]
    なお、平井の手柄として津波対策を称賛した大島達治は、東日本大震災前に執筆した「三陸原子力始末」という一文も残しており、1977年、岩手県から原子力地点を探して欲しいと持ち掛けられた際に「三陸沿岸に適地はないと思いますよ」と返答した。その後の調査を元にある地点で計画を検討した際に、海抜20mの案を計画しており、当時未だ着工前だった三陸海岸に位置する女川よりも高かった[19]
  6. 指針について、女川の件を引き合いに「技術者には法令に定める基準や指針を超えて、結果責任が問われる」というのが平井の信条だったと紹介されることがあるが[20]、平井自身は電中研時代に日本電気協会の原子力発電所耐震設計技術指針 JEAG4601-1970(1970年10月発行)に際し、電気技術基準調査委員会委員の一人となっており、指針冒頭の委員一覧に載っている。すなわち、指針を作る側でもあって、先の言葉は自己言及であった。JEAG4601-1970は、通商産業省より原子力発電所の耐震設計について審議するように求められて1968年1月より作成作業を開始したもので[21]、付録2としてIAEA(国際原子力機関)の勧告が和訳されて掲載してあり、津波について「特定地域の津波による最大海面上昇の高さは十分な歴史的記録がなければ予想できないであろう」と古い記録の不確実性、調査の重要性について述べていた。この勧告は1967年に東京で開催された専門家会議で出されたもので、IAEA公式サイトで英語版を閲覧できるが、出席者、オブザーバに東北電力社員や平井の名は無い[22]
    ただしこれを踏まえてか、JEAG4601-1970本文には「2.4 津波」が設けられ「過去の津波被害歴を調査しなければならない」「米国のボデガベイの場合には50フィートの波高を想定すべきであると言われた」[23]ことに言及し、古来から現代に至る津波の一覧を掲載した。一覧表の中で869年貞観地震はM8.6、1611年慶長地震はM8.1で各地震にm1~4の段階で併記されている津波規模は、共に最大のm4(最大波高20m以上、沿岸500kmに渡り被害あるものが該当)として記載された[24]。他、津波危険の大きさを示す図表も複数掲載され、地域別大津波回数、津波エネルギーはともに三陸~千島が最も大きい数値となっており、ある地点の津波波高の例示は岩手県が示された。
    また、原子力委員会(当時)の「軽水炉についての安全設計に関する審査指針について」は1970年4月に制定されたが[25]、その「解説」にて「予測される自然条件」に津浪が含まれること、「過去の記録の信頼性を考慮のうえ、少くともこれを下まわらない過酷なものを選定して設計基礎とすることをいう」ことが明記された。
    女川1号機の設置許可申請は1970年6月、JEAG4601-1970発行の翌月となる11月に申請の審査結果が報告されたが、以上より、過去の津波記録を参考にすることはこれら2つの勧告(指針に付録された勧告)・指針に沿った行為であり原子力の地震・津波対策に関わる技術者達にも知られており、JEAGに関して言えば平井以外にも数十名の委員がおり、彼等も目を通したうえでのことに過ぎなかった。
  7. 平井の行なったとされる発言や海岸施設研究委員会について町田徹が取材したところ、東北電力は「社内的には議事録など確かな資料が残っていない」「いずれも社内の伝承として残っている程度の話で、文書として記録が残っているわけではない」と回答した[26]。伊藤誠も同様の推定をしている[16]。この一因は平井自身にあり、『発電水力』1970年9月号の鼎談にて「私はあまり経験談は言わないことにしているのです。経験を言うと、武功談になりがちですから、発達に邪魔となります。工事が完成したときは既に次の時代に入っているのですから、やったことは成るべく忘れて新しいことを考えなければなりません。」と述べていた[27]。この姿勢は福島第一の敷地高決定過程を詳述した小林健三郎と対照的である。しかし、平井の後輩達は海岸施設研究委員会の会議録を作成しており、櫻井よしこは入手していた。それによると「過去の事例と2通りの計算式に基づいて,東北電力は最適の敷地高さを15 m と考え,専門家らの意見を聴いた」「宮城県沿岸で最も注意すべき津波は,明治29年の三陸地震や昭和8年の三陸地震よりも,震源がもっと南にある地震」「貞観地震,慶長地震の時には仙台湾沿岸に大津波の記録がある」などと委員達が述べていたという。ただし、櫻井は平井の名を挙げてはいない[28][29]
    その後、委員会で示された近代以前の地震記録、震源が南にある地震を重視する姿勢は設置許可申請では消え、古い津波記録はIAEA勧告文に近い「一般に津波の記録は数量的に不明確なものが多いが(中略)表のものは明治以降の記録であり、かなり精度の高いものである」との表現になり[30]、海岸施設研究委員会の名前も出てこない。明治以降の記録では明治三陸地震の際、宮城県歌津町石浜で14.3mであった記録などが言及されたものの、サイト周辺では明治以降の記録と聞き込みから「せいぜい3m程度」とされた[31]
    なお、東北電力の聞き取り調査は1969年12月から1月にかけて実施し、古老達と順に面談、明治三陸地震について「大津波があったのを憶えているか」と体験談を尋ねたものである[32]。一方土谷信行によれば、東北電力が計画時に地元民に接触したところ、1000年前の津波を理由に古老達に高い場所に建てるように苦言を呈され、その後社内調査をして14.8mを選択したとしている[33]。教えを乞う姿勢は平井にも共通する[7]
    添田孝史は1966年に設置許可申請された東電福島第一と平井を含めた東北電力女川の設置許可申請の頃を比較し、歌津町石浜が女川サイトより37kmの距離なのに対し、福島第一の津波想定根拠が同サイトから55km離れた小名浜検潮所での観測記録だったことを挙げ、海岸施設研究委員会や女川1号機設置許可申請での記載を距離の近さを以って「高い津波の懸念は拭い切れなかった」と評し[34]、伊藤誠は石浜の14.3mの値を以って「『14m程度の津波が来る可能性がある』というように考えたのかも知れない」と最悪事態のレベルを設定したと評している [35]
  8. 女川1号機敷地高の決定に当たっては土工量の経済的検討(土量バランス)も福島第一や浜岡と同様に考慮された[36]
  9. なお、女川1号機から、引き波時に海底が露出する事態に備えて取水路を工夫したことも平井の指導による影響とされる[1][37]。なお、海岸施設研究委員会が継続中で、設置許可申請の出された年の対談にて「取水口の設計にしても、ただ取水口を設計してくれと、一言のみであとは野放しの場合が多いように思う。取水口とはこういうふうに設計する条件があるんだとか、このような特性が必要であるなどと丁寧に仕様書を書いてやって教えることも少ないように思う。(中略)本だけ見てきてやるものですから、要らないものがあったり、最も重要な動的配慮が払われていなかったりします。(中略)有能な研究所の研究成果を将来の研究課題にとりくみ、また、優秀なコンサルタントもいるし、有能な請け負い会社があるのですから、これをどういうふうにうまく利用していくかということのほうが、より経済的にいく」「ものにもよりますが、御自身が仕様書を書いてあげる方が良いと思います」と述べていた[38]
    本件について平井の独創性には、次のような背景がある。電中研時代『発電水力』91号(1967年11月)に「電力中央研究所における発電土木関係研究の動向」を投稿しており、当時電源構成が火主水従に転換しつつあった頃でもあり「火力・原子力に関する土木技術」を重要な課題と位置付けていた。その中で昭和41年度(1966年度)の研究実績として「9.火力,原子力発電所冷却水の取水,放水と再循環対策に関する研究」を挙げ同所海岸水理研究室長でこの問題の専門家だった千秋信一等の手になる報告書を挙げた。千秋はこの時期に多数の同種研究に関与したが、『冷却水取排水に関する技術的問題』(土木学会水理委員会,水工学に関する講義集,1970年7月)にそれらをまとめており、過去に比べて格段に出力の大きな火力・原子力発電所が多数建設されるようになったことを踏まえ、それらの設計事例を紹介し、中には平井の関わった新潟火力発電所も含まれた。敦賀発電所1号機は電中研の設計手法で行われており[39]、沈砂対策で深層取水口に堰を設け、水が一定量溜まるような構造にしたが、この時も千秋の研究を参照しながら本間仁によるアドバイスを受けた[40]。女川1号機の特徴は津波時の引き波対策で取水口正面の深さを前面の海底より下げた点にあり、水を溜める発想は先行プラントと電中研に既に見られたもので、東北電力自体も電中研に取水口の海面変動に関して水理実験を依頼した[41]
    非常用電源については、先述のように八戸火力で嵩上げ対策の経験を得ており、水鳥のように教訓を得た可能性に言及する評もあったが[11]、地上階の海抜は確保したものの、1号機は海抜0.5mの地下に設置され、2,3号機に至り海抜14m(概ね地上階)に設置された[42]
  10. 中部電力浜岡原子力発電所1号機の冷却水取水塔の設計検討を本間仁、他数名の専門家と共に社外有識者として指導した[43]。時期は女川の海岸施設研究委員会と重複する。
2012年夏の女川原子力発電所(IAEA調査団撮影)

平井の没後、2011年3月11日の東日本大震災において、13.78 m (12.78 m の波高と1 m の地盤沈下による)[44]の津波が女川原子力発電所を襲った。しかし、それは海抜14.8メートルの敷地に設置された3基の原子炉に達することなく、3基とも11時間以内に正常に冷温停止した。放射線モニタに異常値は検出されず、女川原発附設の建物はその後3ヶ月間にわたって津波で家屋を喪失した364人の人々の避難所となった。

1年後の2012年夏、IAEAは女川原発に調査団を派遣し、92ページの調査報告書を日本政府に提出した。その結論は、「女川原発の諸施設は「驚くほど損傷を受けていない」(the facilities of the Onagawa NPS remain “remarkably undamaged”)」(報告書15ページ)というものであった[45][46]

平井と結びつける形で東北電力の姿勢を称賛する評は多く「「想定外」というコメントを繰り返した東京電力とは、なんとも対照的である」と述べたものもある[26]。だが女川の事例を研究する過程で14m程度の津波が最大レベルではなく、2012年には最大遡上高が23mになる研究が発表され、(上述の吉村による明治以降の記録への疑問[30]や、大島による適地不在・海抜20m計画の件[19]、そして1999年に原告敗訴で終わった女川原発訴訟[47]といったことなどがあったとは言え)想定値の上昇に終わりが無く、企業活動のためには事前対策のため想定範囲を打ち切らざるを得ないとの評もあった[35]。その後、東電刑事裁判第一審の公判では2008年3月5日に、東電、東北電力、日本原電などが参加して開かれた「津波バックチェックに関する打合せ」の議事記録に言及があり、地震調査研究推進本部の2002年長期評価の考え方に沿って宮城県~福島県沖の領域(海岸施設研究委員会で求められた南側の領域と重複)でM8.5の津波地震シミュレーションを行った結果、女川原発での津波高さが敷地高を超える22.79mとなる計算結果を得ていたが、この2008年の件を東電同様に事故後当該の公判まで隠していたという[48]。なお、震災後の新規制基準では津波想定は23mとなり、これに対応するため海抜29mの防潮堤が建設された。

上記のように平井の先見性に対する過剰な評価に同調しない、或いは疑問視する指摘はあり、15m案についても当時の若林社長の判断であると組織面を重視する論評もある[16]

人物

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日本発送電を解体することになった電力再編成の検討が行われた1950年、電気事業再編成令の1週間ほど前の11月18日、衆議院に設置された考査特別委員会に出席し、2時間半以上に渡って同社土木部、建設局の所管事務、計画立案、予算作成、入札、見積、工事請負契約、工事監督、社内権限分与、利益相反行為や談合への疑問等について、同社の正当性を示す観点から、具体的な業者・関係者名を踏まえつつ多くの証言を残した[4]

土木学会東北支部において昭和30年代に評議員、支部長、顧問を務めた。また、上述の「座談会 土木技術者と電力界について」(『発電水力』1970年9月号)は自身が発電水力協会会長に就任した年に企画された鼎談であったためか、火主水従に原子力が加わった時代の変化に合わせ発電水力協会の改組が話題となり、後輩技術者に水力以外も担当出来るゼネラリストを目指すよう叱咤し、会誌も『発電水力』からダム以外の電力施設を取り上げる意味で『発電土木』に変えてはどうかと提案した。後1977年、協会名は電力土木技術協会に、誌名は『電力土木』に改められた。

生前の業界誌に掲載された平井評は余り無いが、「押しつけがましい判断で処理してきたのを、いかにも判断力があるように見られていたにすぎない、というきびしい見方もある。言い方は悪いが、土木屋出身だから無理ないにしても、親分、子分の関係が身辺に強く、お山の大将的な性格をもっている。電力界で、いまなお、このように前近代的な在り方を好む性格に、手厳しい批難の声があがっている」という厳しい指摘もあった[49]

これが死後になると、平井に接した人々はいずれも、その不抜の信念と、信頼度の高い技術をあくことなく希求する慎重な態度を証言している、となった[3]。 また通産省からもちかけられた共同事業を断った時に見せた経営者としての一徹さは、断られた人に尊敬の念を抱かせたほどであったという[50]

関連人物

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  • 大島達治:平井の後輩に当たる技術系社員で東北電力入社以前から親交があり、入社後は上述のように平井の部下として設計にも従事した[51]。東日本大震災前は、火力発電所建設時代を中心に平井の伝承を絡めた思い出苦労話を書いていた。東日本大震災後は、それまで公表してこなかった平井の女川などに関する業績にも積極的に触れ、2011年9月には電力中央研究所佐藤清、東京新聞の取材を受け、後者は2012年3月7日付けの1周年記事として掲載された。その記事を読んだ毎日新聞からも取材を受け、3月19日付けのコラムで紹介されたという。このようにして、マスメディアを通じて平井の名が広く拡散された[52]。土木学会名誉会員、技術士(建設部門)。
  • 小林健三郎:女川とよく比較される、東京電力福島第一原子力発電所の敷地高の決定に関わった人物。上記のように会議録を別にすれば、伝承しか残っていないと評され[26]、また『発電水力』であまり話さぬようにしているとした平井弥之助に対して、小林はその決定過程を「今後増大の一途をたどる原子力開発の検討に広く適用し得るものと考え」(論文まえがきによる)、数百ページに渡る博士論文『わが国における原子力発電所の立地に関する土木工学的研究』にまとめ、1号機運転開始後の1971年7月23日京都大学より博士学位を授与された。なお、論文の第4章は全国の沿岸から73ヵ所の適地を選んで各種指標を評価したもので、地点番号3は女川町小屋取が選定されているが、この研究では津波に関して当時の論文・統計などを挙げた上で太平洋岸の敷地高を一律10mと設定して立地費を算出したため、先の地点番号3においても敷地高は10mとなっている。ただし、博士論文が公開されたのは女川1号機の設置許可申請が認可された後である。なお、論文作成に当たり、土木学会誌などに一部のテーマを抄録した小論文が投稿されており、その内『土木施工』1971年7月号に掲載された「福島原子力発電所の計画に関する一考察」は、東京電力作成の『福島原子力事故調査報告書』(2012年6月20日)P28-29に要約引用された。図8において敷地高を4~15mまで変化させた場合の掘削工事費が掲載されている。この詳細は博士論文第5章に28ページに渡り詳述されている。情報を公開の場に残すという点においては、平井弥之助と全く正反対の姿勢であった。

脚注

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  1. ^ a b c d 大島達治「技術放談:結果責任を負う事業経営者のあり方」 2011年7月25日
  2. ^ “町田徹 ニュースの真相 明暗! 最悪事故の「福島」と避難所「女川」 復興に不可欠な「東通」のルーツを現地取材”. 現代ビジネス. (2012年4月3日). https://gendai.media/articles/-/32200 2014年3月4日閲覧。 
  3. ^ a b 稲松敏夫「電力土木の歴史 第2編 電力土木人物史(その6)」” (PDF). 土木史研究 第18号 (1998年5月). 2014年3月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 第8回国会 衆議院 考査特別委員会 第17号 昭和25年11月18日(国会会議録検索システム)
  5. ^ 土木学会における役職については下記による
    付・土木学会役員一覧”. 土木学会. 2024年11月7日閲覧。
  6. ^ List_240630_0.pdf 土木学会名誉会員一覧(1933 年~2023 年)”. 土木学会. 2024年11月7日閲覧。
  7. ^ a b 「座談会 土木技術者と電力界について」『発電水力』1970年9月号 発電水力協会 p.73
  8. ^ 大島達治「先輩に学ぶ(その3)彌翁眞徹居士 平井弥之助先生」『技術放談 : 過去に生きるおとこ : 毒舌・冗説』2003年1月 p. 26-27
  9. ^ 首藤信夫. “過去の災害に学ぶ29 1960年5月24日 チリ地震津波 その2”. 内閣府. 2024年11月6日閲覧。
  10. ^ 『東北電力火力40年のあゆみ : 1956-1996』東北電力 1997年2月p. 44
  11. ^ a b c 水鳥雅文「巻頭言 時間のスケール」『電力土木』、電力土木技術協会、2013年7月、p .1-2。 
  12. ^ 大島達治「3.危機管理について(新潟火力の計画と震災)」『技術放談 : 過去に生きるおとこ : 毒舌・冗説』2003年1月 p. 60-62
  13. ^ 大島達治「危機管理を先輩に学ぶ(その2) 新潟震災-或る青年技術者(電力土木)の体験-」『技術放談 : 過去に生きるおとこ : 毒舌・冗説』2003年1月 p. 49-50
  14. ^ 加藤愛雄(東北大学理学部教授)「津浪の跡をたづねて」『港湾』1960年10月 p.39,41
    なお、加藤はチリ津波について本記事以外にも複数の調査報告・提言を行った。
  15. ^ 「女川原子力発電所における津波評価・対策の経緯について」 2.女川1号機における津波評価 p. 5 東北電力株式会社 2011年9月13日
    設置期間も本スライドに記載。
  16. ^ a b c 伊藤誠「震災に対する事前リスク想定成功事例から学ぶ未然防止の知恵」『品質』Vol.43,No.4 2013年10月 p.31
  17. ^ 尾形努 (2012年12月). “女川原発を救った企業文化”. NTTファシリティーズ. 2024年12月5日閲覧。
  18. ^ 本間浩(実子) (2012年8月19日). “本間先生思い出集 p. 152” (PDF). 東京大学大学院 工学系研究科/社会基盤学専攻 海岸・沿岸環境研究室. 2024年12月5日閲覧。
  19. ^ a b 大島達治「技術屋の性(立地にまつわる話)」『技術放談 : 過去に生きるおとこ : 毒舌・冗説』2003年1月 p. 156
  20. ^ 松浦晋也 (2018年3月15日). “原発を造る側の責任と、消えた議事録”. 日経ビジネス. https://business.nikkei.com/article/interview/20150302/278140/031300005/ 2024年11月6日閲覧。 
  21. ^ 「まえがき」『原子力発電所耐震設計技術指針 JEAG4601-1970』日本電気協会 1970年10月
  22. ^ IAEA PANEL ON ASEISMIC DESIGN AND TASTING OF NUCLEAR FACILITIES PANEL RECOMMENDATION” (PDF). IAEA. 2024年11月6日閲覧。
  23. ^ Bodga Bayは1960年代に米国カリフォルニア州で計画されたプラントだったが、サン・アンドレアス断層に近過ぎることが問題となり1964年に建設は中止された。BWRを15mの津波想定の場で計画した先行プラントであった。
  24. ^ 歴史津波の一覧表のフォーマットは女川の設置許可申請と同じだが、取り上げている津波は女川設置許可申請の方は三陸を中心としその数も多い一方、JEAG4601-1970は全国の代表的なものになっている。
  25. ^ 軽水炉についての安全設計に関する審査指針について” (html). 原子力委員会 (1970年4月23日). 2024年11月6日閲覧。
  26. ^ a b c 町田徹『電力と震災 東北「復興」物語』日経BP社 2014年2月 P .251,253
  27. ^ 「座談会 土木技術者と電力界について」『発電水力』1970年9月号 発電水力協会 p.73
  28. ^ 櫻井よしこ「巻頭言 大自然と宇宙を司る理と専門家の知恵」『日本原子力学会誌』第54巻第12号、日本原子力学会、2012年12月、p .1。 
  29. ^ 櫻井のオフィシャルサイトでは、東北電力作成の2011年9月13日のスライドよりも多くの委員の名が明かされており、本間仁を委員長として、地震、土木工学水理学、海岸工学、津波)、地球物理学等の専門家を招聘したもので、その中から梶浦欣二郎東京大学地震研究所教授(津波)、堀川清司東大土木工学科教授(海岸工学)の名を挙げているが、ここでも平井の名は挙げていない。
    櫻井よしこ (2012年3月1日). “原発事故克服に専門家を活用せよ”. 櫻井よしこオフィシャルサイト. 2024年11月8日閲覧。
  30. ^ a b なお、設置許可申請から2ヵ月後、審査中の1970年7月、吉村昭が『海の壁』(中公新書、後文春文庫で『三陸海岸大津波』と改題再版)を上梓し、2章の「波高」にて東北電力が参照した明治三陸津波の記録と同じ文献(『験震時報』第7巻第2号掲載)を引き合いに「この数字がそのまま津波の高さを正確に伝えるものとは限らない」と設置許可申請とは異なる評価を下し、自身が地元民から聞き取った岩手県内の地点では先の記録より遥かに高い津波だったと推測されることを例示した。
  31. ^ 『女川原子力発電所原子炉設置許可申請書 添付書類6』東北電力 1970年5月 p.6-2-(3)
  32. ^ 「68部会―103 現地附近の地震被害調書」『女川原子力発電所原子炉設置許可申請第68部会参考資料』1970年11月
  33. ^ 土谷信行『災害列島の作法』主婦の友インフォス 2022年10月 P155
    著者は東日本大震災後に女川町復興事業を担当した元都職員
    なお、本書はその舞台を説明会としているが、当時は公開ヒアリング制度の導入前であり、そもそも設置許可も取得していない。実施していたのは原子力委員会に提出した聞き取り調査および、用地測量・買収のためのコンタクトである。震災時の描写も送電線による外部電源を非常電源と記載するなどの点には留意が必要。
  34. ^ 添田孝史『原発と大津波 警告を葬った人々』岩波新書2014年11月、p.8-12
    各サイトからの距離についても本書の記載による。
  35. ^ a b 伊藤誠「震災に対する事前リスク想定成功事例から学ぶ未然防止の知恵」『品質』Vol.43,No.4 2013年10月 p.32
  36. ^ 「女川原子力発電所計画上の特徴」『女川原子力発電所原子炉設置許可申請第68部会参考資料』P1
    伊藤誠の指摘のように福島第一は4年前、浜岡はほぼ同世代。伊藤誠「震災に対する事前リスク想定成功事例から学ぶ未然防止の知恵」『品質』Vol.43,No.4 2013年10月 p.29
    福島第一の例は「福島原子力発電所の計画に関する一考察」『土木施工』1971年7月号
    浜岡の例は右記で、著者の内渡辺は、別途記載の通り取水塔の設計で平井から指導を受けた。渡辺一郎、田中義三「浜岡原子力発電所の立地条件と土木工事の計画について」『発電水力』1971年11月号
  37. ^ 「女川原子力発電所における津波評価・対策の経緯について」 8. 津波対策① 敷地高さと構造物の配置(1/2) p. 30 東北電力株式会社 2011年9月13日
  38. ^ 「座談会 土木技術者と電力界について」『発電水力』1970年9月号 発電水力協会 p.74
  39. ^ 千秋信一「原子力発電所の冷却水の取水・放水と海岸設備の設計」『コンストラクション』7巻3号 重化学工業通信社 p. 47
  40. ^ 大西外明 (1969年10月). “深層取水口の海底よりの高さとヒサシの効果”. 土木学会. 2024年12月5日閲覧。
  41. ^ 東北電力『女川原子力発電所第1号機建設記録』1985年2月 p.418
  42. ^ 大前研一『「福島第一」事故検証プロジェクト最終報告書 原発再稼働 最後の条件』小学館 2012年7月30日 p. 96
  43. ^ 渡辺一郎,井上昭栄「浜岡原子力発電所冷却水取水塔の設計」『土木学会誌』第58巻第2号、土木学会、1973年2月、p .38。 
  44. ^ 東北電力「平成23年 (2011年) 東北地方太平洋沖地震により発生した津波の調査結果について」p. 10” (PDF). 東北電力 (2011年10月7日). 2014年10月30日閲覧。
  45. ^ IAEA Mission to Onagawa Nuclear Power Station to examine the performance of systems, structures and components following the Great East Japanese Earthquake and Tsunami. Onagawa and Tokyo, Japan. 30 July - 11 August 2012.” (PDF). IAEA (2012年8月11日). 2014年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月30日閲覧。
  46. ^ 女川原子力発電所における東日本大震災およびその津波の後の系統,構造物および設備の性能を調査するためのIAEAミッション[東北電力和訳版]” (PDF). 東北電力 (2013年4月9日). 2014年10月30日閲覧。
  47. ^ 女川原発訴訟は1981年に提訴され1999年最高裁で敗訴したがやはり三陸沖に想定したM8.5の地震による津波想定で牡鹿町に25mの波高が計算されており重要な論点となっていた。
    海渡雄一『原発訴訟』岩波新書 2011年11月 p.101-102
  48. ^ 添田孝史 (2018年4月27日). “「『切迫感は無かった』の虚しさ」刑事裁判傍聴記:第九回公判(添田孝史)”. 福島原発訴訟支援団. https://shien-dan.org/soeda-20180427/ 2024年11月6日閲覧。 
  49. ^ 「電力界の怪物紳士録」『政経人』1969年8月号
  50. ^ 「鈴木篁 「原子力 の安全神話 エピソード2」
  51. ^ 大島達治「先輩に学ぶ(その3)彌翁眞徹居士 平井弥之助先生」『技術放談 : 過去に生きるおとこ : 毒舌・冗説』2003年1月 p. 23
  52. ^ 大島達治「技術放談<半寿の娑婆に学ぶ>」2012年5月19日

外部リンク

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