平仲兼
平 仲兼(たいら の なかかね、宝治2年(1248年) - 応長2年(1312年))は、鎌倉時代の公家。兵部卿・平時仲の長男。官位は従二位・権中納言。
経歴
[編集]正嘉元年(1257年)従五位下に叙爵し、正元元年(1259年)民部大輔に任官する。文応2年(1261年)従五位上、弘長3年(1263年)正五位下と昇進したのち、勘解由次官を経て、建治3年(1277年)左衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられる。父の時仲が諸大夫(正四位下)止まりであったため、検非違使庁の官人に軽侮されたという[1]。また、このころ近衛家・鷹司家の家司も務めている[1]。弘安3年(1280年)後宇多天皇の五位蔵人に補せられた。
弘安8年(1285年)右少弁に遷ると、弘安9年(1286年)正五位上、弘安10年(1287年)従四位下・左少弁、正応元年(1288年)従四位上・権右中弁、正応2年(1289年)正四位上・右大弁と弁官を務めながら順調に昇進する。正応3年(1290年)6月に左大弁に昇任すると、11月には蔵人頭に任ぜられるも弁官を去るが、正応5年(1292年)に従三位・参議に叙任され公卿に列した。公卿昇進に際して人々の非難があったが、伏見天皇の助力によってこれを果たしたという[1]。しかし、同年末には参議を辞任している。
永仁2年(1294年)正三位に昇叙されると、翌永仁3年(1295年)太宰大弐に任ぜられ、任期中の永仁7年(1299年)従二位に叙せられた。乾元2年(1303年)4月に権中納言に任ぜられるが、5月にはこれを辞している。嘉元3年(1305年)子息の右少弁・平仲高を越えて吉田隆長が左少弁に任ぜられたことを恥じ、仲高と共に出家した[2]。法名は覚浄。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 正嘉元年(1257年) 5月7日:叙爵(従五位下)
- 正元元年(1259年) 12月30日:民部大輔
- 文応2年(1261年) 正月5日:従五位上
- 弘長3年(1263年) 正月6日:正五位下
- 文永11年(1274年) 12月20日:兼甲斐守
- 建治2年(1276年) 正月23日:勘解由次官、元民部大輔
- 建治3年(1277年) 5月14日:左衛門権佐、蒙使宣旨。9月13日:防鴨河使
- 建治4年(1278年) 2月8日:去甲斐守
- 弘安3年(1280年) 6月27日:五位蔵人。7月11日:兵部大輔、元権佐
- 弘安8年(1285年) 3月6日:右少弁、去蔵人大輔[3]
- 弘安9年(1286年) 7月11日:正五位上
- 弘安10年(1287年) 12月10日:左少弁、従四位下
- 正応元年(1288年) 10月27日:権右中弁。11月8日:従四位上
- 正応2年(1289年) 正月13日:左中弁、正四位下。正月23日:装束使、率分・記録所勾当[3]。2月24日:修理左宮城使。10月18日:右大弁。10月27日:正四位上
- 正応3年(1290年) 6月8日:左大弁。6月18日:造東大寺長官。9月21日:兼中宮亮(中宮・西園寺鏱子)。11月21日:蔵人頭、去弁[3]。11月27日:聴禁色
- 正応5年(1292年) 2月15日:参議。5月15日:従三位。12月25日:止亮。12月30日:辞退
- 永仁2年(1294年) 7月2日:正三位
- 永仁3年(1295年) 正月28日:太宰大弐
- 永仁7年(1299年) 4月12日:従二位
- 正安2年(1300年) 12月12日:止大弐
- 乾元2年(1303年) 4月16日:権中納言。5月18日:辞
- 嘉元3年(1305年) 3月2日:出家
- 応長2年(1312年) 日付不詳:薨去
系譜
[編集]『系図纂要』による。