平岩親重
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正5年5月11日(1577年6月7日)[1] |
改名 | 親昌、親重[1] |
別名 | 金八郎、新左衛門[1] |
戒名 | 久真[1] |
墓所 | 円福寺(愛知県岡崎市)[1] |
官位 | 左京進[1] |
主君 | 松平長親、信忠、清康 |
氏族 | 平岩氏 |
父母 | 父:平岩重益 母:天野孫市の娘[1] |
兄弟 | 親重、菅沼越後守の妻、親基、親長、親弘、鈴木重直の妻[1] |
妻 | 天野貞親の娘[1] |
子 | 親吉、正広、康重、山田半右衛門の妻、康長、平岩真野右衛門の妻、渡辺守綱の妻、山田内右衛門の妻[2] |
平岩 親重(ひらいわ ちかしげ)は、戦国時代の三河国の武将。徳川家康の重臣・平岩親吉の父。
経歴
[編集]三河国額田郡坂崎の土豪で、三河国の有力国人である松平氏の被官。松平長親・信忠・清康の3代に仕えた。嫡男の親吉は幼少期より徳川家康(清康の孫)に仕え、厩橋城、後に犬山城に封じられて大名となっている。親吉の家はその後の嗣子がなく断絶したが、その弟の正広の家が旗本として続いている。親重は天正5年(1577年)に没した[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜』 18巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0222-2。