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平岩親重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平岩 親重
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正5年5月11日1577年6月7日[1]
改名 親昌、親重[1]
別名 金八郎、新左衛門[1]
戒名 久真[1]
墓所 円福寺(愛知県岡崎市[1]
官位 左京進[1]
主君 松平長親信忠清康
氏族 平岩氏
父母 父:平岩重益 母:天野孫市の娘[1]
兄弟 親重、菅沼越後守の妻、親基、親長、親弘、鈴木重直の妻[1]
天野貞親の娘[1]
親吉正広康重、山田半右衛門の妻、康長、平岩真野右衛門の妻、渡辺守綱の妻、山田内右衛門の妻[2]
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平岩 親重(ひらいわ ちかしげ)は、戦国時代三河国武将徳川家康の重臣・平岩親吉の父。

経歴

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三河国額田郡坂崎の土豪で、三河国の有力国人である松平氏の被官。松平長親信忠清康の3代に仕えた。嫡男の親吉は幼少期より徳川家康(清康の孫)に仕え、厩橋城、後に犬山城に封じられて大名となっている。親吉の家はその後の嗣子がなく断絶したが、その弟の正広の家が旗本として続いている。親重は天正5年(1577年)に没した[2]

脚注

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参考文献

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  • 『新訂寛政重修諸家譜』 18巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0222-2