平林盈淑
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平林 盈淑(ひらばやし みつよし、1790年(寛政2年)- 1861年1月6日(万延元年11月26日))は、江戸時代後期の農民[1][2]、経世家である[3]。通称は文五右衛門(豊後右衛門とも)[1][2]、号は桃泉[2][3]。
経歴・人物
[編集]信濃国筑摩郡上生坂村(現長野県東筑摩郡生坂村)にて名主の子として生まれる[2][3]。若くして父の後継者として[2]、天領であった麻績や会田、川手、坂北の4地域の名主を務めた[3]。この頃に生坂で生産されたタバコの生産や販売等に携わり[2]、1825年(文政8年)には中山道内の八宿において生坂煙草の付け出しの訴訟における24ヵ所の村の総裁を務め[3]、農民を指導した[3]。子に平林信尹がいる。
主な著作物
[編集]主著
[編集]- 『家童訓論』
- 『家業始末記』
その他の著書
[編集]- 『農業大全』
- 『家業大全』