平正弘
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時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
氏族 | 伊勢平氏 |
父母 | 父:平貞弘 |
兄弟 | 正弘[1]、雅弘、実弘、重弘[2] |
子 | 平維俊、家弘[1] |
経歴
[編集]平貞弘の子[1][3]。天永2年(1111年)右衛門尉に遷任する[3]。元永2年(1119年)左衛門尉で皇太子顕仁親王の侍となり、のち検非違使に転じた[3]。保元の乱では崇徳上皇側に与し陸奥に流され、伊勢、信濃、越後に及ぶ所領は没収され後院領となった[3]。
平氏と北信濃
[編集]正弘の信濃国内の所領は野原郷(矢原御厨)、麻績御厨、市村郷、高田郷であったが、正弘が信濃国に所領を多く得たのは、一族に信濃守が多くおり(伯父・平正家や従兄弟の子・平盛基)、彼らが国司の立場を利用して自己の所領形成を図り、それを正弘が継承したからであると考えられる[4]。そして、正弘の子・惟俊や孫・家俊も布施御厨や富部御厨を本拠地としている[4]。
また、鳥羽院庁下文によれば、水内郡小川荘の領有を巡った安曇郡矢原荘池田郷の池田宗里と清原家兼の争いに、伊勢平氏の平維綱が介入・横領しており、維綱のこの行為と正弘の野原郷形成は連携していたと考えられる[4]。
他にも
以上のことから、北信濃の開発には伊勢神宮と平氏が積極的な役割を果たしていたと考えられる[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c 藤原 1904, 平氏22頁.
- ^ 野口実「院政期における伊勢平氏庶流 : 「平家」論の前提作業」『研究紀要』第16巻、京都女子大学宗教・文化研究所、2003年3月、1-31頁、CRID 1050564287530899456、hdl:11173/1771、ISSN 0914-9988。
- ^ a b c d 阿部 2009, 431頁.
- ^ a b c d 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発 : 開発勢力としての伊勢平氏と越後平氏」『国立歴史民俗博物館研究報告』第96巻、国立歴史民俗博物館、2002年3月、141-193頁、CRID 1390290699066204416、doi:10.15024/00001041、ISSN 0286-7400、NAID 120005748273。
参考文献
[編集]- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 11』吉川弘文館〈故実叢書 第3輯〉、1904年 。
- 阿部猛『日本古代人名辞典』東京堂出版、2009年。ISBN 4490107617。