平田典通
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平田 典通(ひらた てんつう、1641年10月23日(尚賢元年9月19日) - 1722年7月12日(尚敬10年5月29日))は、琉球王国の陶工。唐名は宿 藍田(しゅく らんでん)。
概要
[編集]1670年、中国・清に渡り、釉薬の技術を学び、赤絵や五色玉などの技法を琉球にもたらす。帰国後の1682年、首里城正殿屋根の竜頭瓦(りゅうとうがわら)を制作した[1][2][3][4]。
「五色玉」について
[編集]平田典通が伝えた五色玉については、赤絵の釉薬とする説と、ガラス玉とする説とがある。釉薬説は、『宿姓家譜』に典通の事績として「渡唐上京仕、五色 玉上焼物薬稽古仕り、帰国に...。」とあるのが唯一の根拠である。一方のガラス玉説は、『琉球国由来記』によると当時の技術部門に「瓦工」・「陶工」と別に「玉焼」の工人が独立して記載され、玉焼の項に「五色玉焼、始ニ康熙九年庚戌。宿氏 興那城筑登之典通、今稱二平田一。入レ閩稽古二製作一也。」とあり、また比嘉朝健編『琉球歴代陶工家譜』には王の御冠の玉、唐衣装の提鳴玉、露玉の修復や玉風鈴の製作が記録されており、ガラス玉であると考えられる[5]。
脚注
[編集]- ^ 平田典通 デジタル版 日本人名大辞典+Plus - コトバンク、2017年6月30日閲覧。
- ^ 平田典通 - 『最新版 沖縄コンパクト事典』琉球新報社、2003年3月(琉球新報ウェブサイト)、2017年6月30日閲覧。
- ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房 東洋企画 p. 177
- ^ 宮城篤正『琉球の赤絵』沖縄県立博物館紀要3号(PDF)
- ^ 垣花隆夫「琉球の赤絵の歴史について」『壺屋焼物博物館紀要 第10号』(PDF)