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平田幸正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平田 幸正(ひらた ゆきまさ、1925年5月5日[1] - 2014年2月15日)は日本の医師医学博士、元日本糖尿病学会会長、初代東京女子医科大学病院糖尿病センター所長。

来歴

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山口県小郡町(現山口市)出身[2]。幼少期に開業医であった実父が急逝し、結核の母と自給自足で戦前戦中期を過ごした[2]。同時期に多数の親類や知人を病で失い、「人命を救いたい」として自らも医者を目指し、九州大学医学部に進学した[2]

1948年9月に同学を卒業後に大学院に進み、助手、講師などを務めた。1960年から二年間の米国留学を経験し帰学。1970年に世界で初めてインスリン自己免疫症候群の症例を報告した[3][4][5]。1953年7月、九州大学医学博士[6]。 1969年10月から鳥取大学第一内科教授。1974年5月には日本糖尿病学会会長となった。同年夏には小児糖尿病サマーキャンプを企画し、自らも子ども達の指導とケアにあたった[3][7]。このサマーキャンプは今日も「小児糖尿病大山サマーキャンプ」として継続して開催されている[8]

1975年7月から東京女子医科大学第三内科教授となり、日本の大学病院初となる糖尿病センターを設立し初代所長に就任[3][9]。糖尿病センターは病院1号館内に設置されたが、単独建屋施設に入ったのは、1987年3月である[10]。1987年から日本糖尿病協会副理事長、1990年から2年間、理事長となった[11][12]。理事長時代には"患者友の会"であった同協会を、医師・コ・メディカル・患者たちの組織へと舵をきり、医療連携の強化を目指した[13]

1991年3月まで糖尿病センター所長を務め定年退職。古巣である福岡に戻り、病院顧問として診療を続けた[2]

2014年2月15日、満88歳で没した。

インスリン自己免疫症候群

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1968年、九州大学講師であった平田の元に低血糖症状の発作を起こした患者が運び込まれる[14]。患者はインスリン注射や経口血糖降下薬を服用しておらず、膵臓腺腫によるインスリン過多も見当たらなかった。平田はあるデータに着目した。抗体である。抗体がインスリンと結合し、体内を巡る。何らかのきっかけで分離したインスリンが血液中を大量に回り、低血糖症状を引き起こしていたのである[14]。1970年に学会でこの症例を報告したが、出席者たちは半信半疑であったという[14]。その後症例が多く報告され、平田説の妥当性が証明された。同症候群はのちに「平田病」(平田氏病とも)と呼ばれた[15][16]

インスリン自己注射の適法化

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インスリンが発見されたのは1921年のことである。欧米では早期に糖尿病患者に対するインスリン自己注射が解禁されたが[17]、日本では厚生省や医師の根強い反対があり解禁とはならなかった。1950年代後半に発売された経口血糖降下薬の存在が大きかったためである[18]。インスリン療法が必要な患者にとっては、週に何度か通院するか自費で購入するかしか方策はなかった[17]

平田は1971年に署名運動を始めた。11万人もの署名を集め厚生省へ提出したが、この時も認可はならなかった[17]。一時期「長野方式」[19] と呼ばれる手法を用いた医師もいたが、1976年に厚生省から中止命令が出た。経口血糖降下薬は効き目の強い薬剤であり、投薬量を誤った医療過誤による事故例が平田の調査では日本全国で500例近くに上った[18]。訴訟まで発展し、患者側が勝訴した事例もあった[18]。この後も平田は厚生省や日本医師会へ月に何度をなく陳情を繰り返し、流れをつないだ[3]

1981年5月23日、中央社会保険医療協議会厚生大臣に対する答申の中で、インスリン自己注射の保険適用を認めるべきとし、同年6月1日から実施された[20][21]。平田の永年の懸案事項が解決した日であった。この答申直前まで厚生大臣の職にあった園田直もまた重篤な糖尿病患者であり、糖尿病の合併症である腎症を患っていた[22][23]

エピソード

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東京女子医科大学病院在職中は多忙を極め超長時間勤務に加え、食生活も乱れた結果、自身も2型糖尿病を発症した。以後は食事療法を徹底したという[2]。弟子や患者たちからは「糖尿病の神様」として慕われた[2][10][24]

60歳になり医局員たちから還暦祝いが送られたが、そのお返しとして平田は耳掻きを配った。これは医学教育の祖、ウイリアム・オスラーの名言に肖ったものだという[7]。平田は1991年3月に行われた退官最終講義でもこの言葉を述べて、若い医師・学生への戒めとした。

「Listen to the patient, he is telling you the diagnosis.」
(和訳)「患者さんの言うことをよく聞きなさい。話している中に診断名があるのですよ。」 — ウイリアム・オスラー、(平田幸正 1991, p. 514)

著書

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  • 「糖尿病」 (共著)1957年 医学書院刊
  • 「糖尿病診療の実際」1965年 金原出版刊
  • 「糖尿病 -早期発見から生活指導まで-」 (共著)1970年 医学書院刊
  • 「食事療法シリーズ 糖尿病の食事療法」(共著)1973年 保健同人社刊
  • 「百万人の医学4 糖尿病」 1976年 読売新聞社
  • 「糖尿病の食事療法」1976年 金原出版刊
  • 「臨床糖尿病講座Ⅰ」(共編)1976年 金原出版刊
  • 「糖尿病ハンドブック」1980年 メジカルフレンド社刊
  • 「糖尿病カラーアトラス」 (監修)1981年 南江堂刊
  • 「糖尿病の正しい知識」 1981年 南江堂刊
  • 「糖尿病診療の実際」(共編)1982年 医学書院刊
  • 「糖尿病性腎症」(共編)1982年 医学書院刊
  • 「糖尿病」(共著)1984年1月 医学書院刊
  • 「糖尿病のマネージメント」(共編)1986年 医学書院刊
  • 「糖尿病性神経障害の臨床」(平田編) 1988年9月 現代医療社刊
  • 「糖尿病治療のこつ」 1989年11月 南光堂刊
  • 「糖尿病の治療」 1991年3月 文光堂刊
  • 「質疑応答糖尿病Q&A」(平田編) 1991年9月 日本医事新報社刊
  • 「糖尿病の治療(追補版)」1993年10月 文光堂刊
  • 「糖尿病の治療 第2版」 2003年4月 文光堂刊

ほか多数

受賞

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脚注

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  1. ^ 『現代物故者事典2015~2017』(日外アソシエーツ、2018年)p.907
  2. ^ a b c d e f 読売新聞 1997年5月12日朝刊12版 18面 「医療ルネサンス1480」欄
  3. ^ a b c d DIABETES NEWS No.141
  4. ^ 九州大学医学部. “研究室について”. 2014年6月27日閲覧。
  5. ^ 平田幸正「インスリン自己免疫症候群」『東京女子医科大学雑誌』第49巻第8号、東京女子医科大学学会、1979年8月、689-696頁、CRID 1050564286188742016hdl:10470/3891ISSN 0040-90222024年8月21日閲覧 
  6. ^ 平田幸正『血清内カリウムに関する研究』九州大学、1953年。 NAID 500000524209https://id.ndl.go.jp/bib/000011004750 
  7. ^ a b さかえ 19ページ
  8. ^ 日本糖尿病協会. “第41回小児糖尿病大山サマーキャンプ”. 2014年6月24日閲覧。
  9. ^ 東京女子医大病院. “糖尿病センターとは”. 2014年6月22日閲覧。
  10. ^ a b 東京女子医大病院糖尿病センター. “DIABETES NEWS No.100”. 2014年6月22日閲覧。
  11. ^ さかえ 18ページ
  12. ^ 50年のあゆみ 99ページ
  13. ^ 50年のあゆみ 116ページ
  14. ^ a b c d 朝日新聞 1976年7月1日夕刊2版 7面 - 朝日学術奨励金の人びと4 -
  15. ^ JLogos. “略語大辞典-医学-IAS”. 2014年6月20日閲覧。
  16. ^ メディカルオンライン. “医学文献検索サービス - 炎症と免疫”. 2014年6月20日閲覧。
  17. ^ a b c d 50年のあゆみ 150-151ページ
  18. ^ a b c 朝日新聞 1977年2月26日朝刊13版 23面
  19. ^ 医師がインスリン注射を施し、残ったインスリンを患者に渡し、自己注射を行って経過を報告させるという方式である。
  20. ^ 朝日新聞 1981年5月24日朝刊13版 3面
  21. ^ 50年のあゆみ 98ページ
  22. ^ 朝日新聞 1984年4月2日夕刊4版 1面
  23. ^ 渡部亮次郎. “糖尿闘病体験と終末期”. 2014年6月26日閲覧。
  24. ^ 小倉第一病院 - 病院新聞. “平田幸正先生ご講演”. 2014年6月22日閲覧。
  25. ^ a b 一般社団法人日本糖尿病学会. “学会賞/坂口賞”. 2014年6月22日閲覧。
  26. ^ 鈴木万平糖尿病財団. “糖尿病療養指導鈴木万平賞 受賞者 - 第2回受賞者”. 2014年6月24日閲覧。

参考文献

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