平石七太夫
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平石 七太夫(ひらいし しちだゆう、1825年(文政8年) - 1878年(明治11年)2月17日)は、筑前国出身(現福岡県朝倉市か)の幕末の大相撲力士。最高位は関脇。年寄5代井筒、8代音羽山。
人物
[編集]大坂相撲の湊に入門し古処ヶ嶽を名乗るといわれるも番付未確認。東京の雷部屋で虎ヶ嶽で1854年二段目が初見。投石、書釋迦山から出釋迦山と改名し1862年11月入幕。讃岐国丸亀藩の抱えで、丸亀の四国八十八箇所第73番札所の出釈迦寺に因んだと考えられる。合掌仕切りで人気を博し、「お釈迦によう似た出釈迦山」とも謳われた[1]。勝越しを続け、1866年11月小結、平石に改名し1868年関脇となるも2場所全休し1868年11月限り引退。1869年頃井筒を襲名[2]、その後雷(十万ノ海)が死去、音羽山(簗瀬嶽)が廃業し雷一門のまとめ役として音羽山を襲名したと思われる。弟子には幕内投石、十両出釈迦山らがいた。巡業番付、文献には一度も現れないままで1878年2月死去。
主な成績
[編集]- 番付在位場所数:24場所
- 幕内在位:13場所
- 幕内成績:55勝16敗44休11分2預
場所別成績
[編集]春場所 | 冬場所 | |||||
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1854年 | x | 西幕下49枚目 – |
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1855年 | 西幕下40枚目 – 興行中止 |
x | ||||
1856年 | 西幕下41枚目 – |
西幕下23枚目 – |
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1857年 | 番付非掲載 不出場 |
番付非掲載 不出場 |
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1858年 | 番付非掲載 不出場 |
西幕下13枚目 – |
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1859年 | 西幕下12枚目 – |
西幕下10枚目 5–3 1預 |
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1860年 | 西幕下7枚目 0–0 |
番付非掲載 不出場 |
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1861年 | 西幕下4枚目 4–1 1分1預 |
西幕下筆頭 2–2 |
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1862年 | 西幕下筆頭 6–0 1分 |
西前頭5枚目 5–2–2 1分 |
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1863年 | 西前頭4枚目 5–0–3 2分 |
西前頭2枚目 7–1 1分 |
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1864年 | 西前頭2枚目 6–1–2 1分 |
西前頭筆頭 5–1–3 1分 |
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1865年 | 西前頭筆頭 6–2–1 1預 |
西前頭筆頭 6–0–1 1分1預 |
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1866年 | 西前頭筆頭 4–3–3 |
東小結 4–4–1 1分 |
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1867年 | 東小結 2–0–7 1分 |
東小結 5–2–1 2分 |
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1868年 (明治元年) |
東関脇 0–0–10 |
東関脇 引退 0–0–10 |
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各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 当時は十両の地位が存在せず、幕内のすぐ下が幕下であった。番付表の上から二段目であるため、現代ではこの当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。
- 二段目11枚目以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。またこの地位に関しては、当時の星取・勝敗数等に関する記録がほとんど現存していないため、勝敗数等は上表からは省略。
改名歴
[編集]- 虎ヶ嶽 長五郎(上の名前の番付面の表記は「とらたけ」「虎ヶたけ」) - 1854年11月場所 - 1856年1月場所
- 投石 辰平 - 1856年11月場所
- 書釋迦山 峯吉 - 1858年11月場所 - 1859年11月場所
- 出釋迦山 峰吉(二段目在位時の下の名前の番付面の表記は「峯吉」) - 1860年2月場所 - 1866年11月場所
- 平石 七太夫 - 1867年4月場所 - 1868年11月場所
脚注
[編集]- ^ “関取名鑑(平石 七太夫)”. web.archive.org (2006年9月11日). 2020年7月20日閲覧。
- ^ 従来、引退数年後の1871年頃音羽山を襲名と考察されていたが、2010年頃発見された1873年の年寄連名に井筒万五郎の名があり、お抱え藩や次代音羽山との関係から平石の襲名と決定づけられた。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 相撲レファレンス 平石 七太夫
- 相撲レファレンス 書釈迦山 - 分離登録