平賀興貞
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 明応7年(1498年) |
死没 | 天文21年11月25日(1552年12月10日) |
別名 | 通称:新四郎 |
戒名 | 永珊 |
官位 | 蔵人大夫 |
主君 | 大内義興→義隆→尼子経久 |
氏族 | 藤姓平賀氏 |
父母 | 父:平賀弘保 |
兄弟 | 興貞、入野貞景 |
子 |
隆宗、広相、梨羽景行、 女(香川元景室) 養子:隆保(船木常平の次男) |
平賀 興貞(ひらが おきさだ)は、戦国時代の武将。安芸の国人領主、平賀氏当主。平賀弘保の嫡男。
生涯
[編集]明応7年(1498年)、安芸国の国人領主である平賀氏当主・平賀弘保の嫡男として生まれる。初めは大内氏に属し、元服時に大内義興の偏諱を受けて興貞と名乗る。
大永3年(1523年)の鏡山城の戦いで大内方の鏡山城が落城すると、同年に父・弘保が防御に優れた頭崎城を築いた。興貞は期待されてこの頭崎城に城主として入ったが、後に大内氏・尼子氏への対応で父・弘保や子の隆宗・新九郎(後の広相)兄弟と意見を異にし、ついには親子で度々争うようになったため、やがて興貞は尼子経久に通じるようになる。
天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就が高屋保へと進出し、頭崎城を攻略した。敗れた興貞は近隣の篁山山頂付近に竹林寺を再建して出家した。家督は隆宗が継いだ。