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平館城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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平館城
岩手県
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 平舘氏
築城年 不明
主な城主 平舘氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、堀
指定文化財 史跡等未指定[1]
位置 北緯39度56分41.3秒 東経141度05分26.5秒 / 北緯39.944806度 東経141.090694度 / 39.944806; 141.090694座標: 北緯39度56分41.3秒 東経141度05分26.5秒 / 北緯39.944806度 東経141.090694度 / 39.944806; 141.090694
地図
平館城の位置(岩手県内)
平館城
平館城
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平館城(たいらだてじょう)は、岩手県八幡平市平舘にあった日本の城

沿革

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平舘集落は北岩手西根の中心地で、北は一戸、南は厨川に通ずる交通の要衝であった。平館城は平舘集落西側丘陵地帯の、八幡神社裏手にあたる標高299メートル、平地との比高差40メートルの「館山」に立地し[2]、山頂部と南側の最高所の舘山の2郭に分けられる。

歴史

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築城年代は不明。室町期からみられる地名で、陸奥国磐手郡平舘村。八戸南部氏の主要な所領であったとみられる。天正年間の城主は一戸城主一戸政連の弟信濃守政包平舘氏を継ぎ、1000石を領して当館を居城としたとあるが、それ以前は判明しない。

一戸政連は一戸城を継いで兵部大輔政連と称し、一戸南部氏の庶流荒木田五郎(一戸五郎)光恒の子孫に当たると伝えており、天正9年(1581年)7月、平舘政包は九戸政実に誘われ、一戸城で一戸政連およびその子出羽を共に殺害して、南部信直によって知行召し上げとなったが、津軽石行重(宮古)の子が平館彦六と称して再興している。

脚注

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  1. ^ 「八幡平市の文化財」八幡平市観光協会公式HP
  2. ^ 岩手県教育委員会 1986 p.98

参考資料

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  • 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-040-01030-2 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 岩手県教育委員会『岩手県中世城館跡分布調査報告書』 82巻、1986年3月30日、99頁https://sitereports.nabunken.go.jp/63039 

関連項目

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