広橋兼秀
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正3年4月29日(1506年5月21日) |
死没 | 永禄10年8月5日(1567年9月17日) |
官位 | 従一位、内大臣 |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 広橋家 |
父母 | 父:広橋守光、母:広橋綱光の娘 |
妻 | 勧修寺政顕の娘、源承の娘 |
子 | 国光、庭田重保室、保子、国子 |
経歴
[編集]永正7年(1510年)従五位下に叙爵。その後蔵人頭、右大弁を歴任して、天文4年(1535年)正四位上参議に任官した。翌年には従三位権中納言。天文11年(1542年)従二位権大納言となるが、翌年には子の国光に譲った。その後、天文22年(1553年)に大納言に返り咲き、弘治3年(1557年)内大臣となるが、間もなく隠居した。永禄10年(1567年)薨去。
また武家伝奏としても活動しており、天文5年(1536年)に周防国の大内義隆(義隆室に、兼秀の娘である広徳院御新造がいた)の下へ下向している。その他賀茂伝奏、春日祭上卿。
系譜
[編集]関連項目
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