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庄川水力電気

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
帽子をかぶり、右手に杖、左手に書類を持った浅野総一郎の銅像
浅野財閥総帥 浅野総一郎の銅像

庄川水力電気(しょうがわすいりょくでんき)は浅野総一郎が創立した電力会社。浅野財閥が資金難に陥ったので、日本電力の傘下に入った。小牧ダムを有した。

浅野総一郎が庄川水力電気を創立

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第一次世界大戦によって、日本は未曾有の好景気になった。この時期に浅野総一郎は事業を大拡張し、多数の会社を買収したり創立したりした。電力会社では関東水力電気と庄川水力電気を創立した[1]。 浅野総一郎は1916年(大正5年)に庄川の水利使用を出願し、1919年(大正8年)1月に許可を得ると、9月に庄川水力電気を設立した[2]。資本金は1000万円(四分の一払込)、総株20万株のうち地元の人々が3万株で、浅野財閥が17万株だった[3][4]。ほとんどの重役が浅野財閥の人間だった[5]。最初の計画は、庄川流域の八箇所にダムを建設して合計18万kw以上を発電するというものだった[6][4]。当時日本は堰堤式発電が少なかったので、米国のストーン・アンド・ウェブスター会社(Stone & Webster)に設計を依頼した。そして1921年(大正10年)1月に工事担当技師長のメーシーら一行が来日し、調査してダムの位置を小牧に決定し、1922年(大正11年)7月に工事の認可を得た。ところが翌年に関東大震災震災恐慌になると、資金調達が不可能になって工事が中止となり、外国人技師一行は帰国した[2][5]

浅野財閥から日本電力傘下に

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1925年(大正14年)4月に大阪の日本電力と協定を結んで、電気を供給する代わりに資金と技術の提供を受けることになった。日本電力はこの時に浅野財閥の持ち株の半分を譲り受け、さらに地元の人達の株も買い集めて過半数を制した。工事の主導権を握った日本電力は、ダムの大きさや最大出力など全体的に設計を変更して、1926年(大正15年)7月から工事を再開した[6][3][2][5][4]。1928年(昭和3年)には、1500万円(払込1125万円)に増資し、増資分の500万円すべてを日本電力が引き受けて、総株式30万株の7割を占めた。他方で浅野財閥の持ち株比率は24%に低下した[3][4]。庄川流木争議で手間取ったものの、ようやく1930年(昭和5年)11月に発電を開始して、翌年には重役が日本電力主体になった。1933年(昭和8年)1月には浅野財閥の持株の大部分を日本電力が肩代わりし、1936年(昭和11年)下期には浅野系の重役はいなくなった。翌年上期に、浅野財閥は残りの持株を日本電力に売却した。庄川水力電気は浅野財閥を離れて日本電力の傘下に入った[2][5][1]。2024年現在、小牧発電所(小牧ダム)は関西電力の所有である[7]

脚注

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  1. ^ a b 齋藤憲、1998年『稼ぐに追いつく貧乏なし』東洋経済新報社、117-121頁、213-214頁、251頁 ISBN 4-492-06106-1
  2. ^ a b c d 日本動力協会、1937年『日本の発電所 中部日本篇』工業調査協会、464-476頁 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b c 石山賢吉、1932年『庄川問題』ダイヤモンド社、120-123頁 国会図書館
  4. ^ a b c d 小早川洋一、1981年「浅野財閥の多角化と経営組織」『経営史学』16巻1号、49-50頁 j-stage
  5. ^ a b c d 中外産業調査会、1939年『人的事業大系2(電力篇)』340-343頁 国会図書館
  6. ^ a b 帝国興信所、1929年『財閥研究第1輯』307-309頁 国会図書館
  7. ^ 関西電力 水力発電所一覧 2024-9-22閲覧