広幡忠隆
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広幡 忠隆 ひろはた ただたか | |
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生年月日 | 1884年12月11日 |
出生地 | 東京府東京市 |
没年月日 | 1961年4月12日(76歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)卒業 |
称号 |
正五位 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 文子(山本達雄二女) |
子女 |
長女:広幡信子 養子:広幡増弥 |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1909年12月10日 - 1947年5月2日 |
広幡 忠隆(ひろはた ただたか、1884年(明治17年)12月11日[1] - 1961年(昭和36年)4月12日[1])は、日本の政治家。逓信官僚。華族。貴族院侯爵議員、皇后宮大夫。第10代広幡侯爵家当主。
生涯
[編集]東京府で侍従・広幡忠朝の長男として生まれる[1]。父の死去に伴い1905年1月23日に侯爵を襲爵[1][2]。
学習院中等学科、同高等学科を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業[1]。同年12月10日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し[3]、火曜会に所属して1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[1][4]。
1910年2月、内閣総理大臣官房事務嘱託となる[1]。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格[1][5]。1911年3月、逓信省に入省し逓信管理局書記に任官し管船局に配属された[1]。
以後、戦時船舶管理局庶務課長、同航路課長、管船局庶務課長、兼管船局調査課長、燈台局長、管船局長などを歴任[1]。1932年9月、皇后宮大夫兼侍従次長に就任し、1945年10月まで在任した[1]。
1953年2月、接収解除貴金属及びダイヤモンド関係事件に関し衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された[6]。
人物
[編集]公家出身者ではあるが能吏であった。逓信省時代はペンネームを用いて雑誌に寄稿して役所のペースをコントロールすることもあった。宮内省に移ると二・二六事件などの対処で能力を発揮。後に昭和天皇が意見が異なる秩父宮と会う際、事前にアドバイスを求めるなど高い信頼を得た[7]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 秦郁彦編 2002, p. 437.
- ^ a b c d 霞会館 1996, p. 429–430.
- ^ 『官報』第7941号.
- ^ 衆議院 & 参議院 1990, p. 21.
- ^ 秦郁彦編 2001, p. 198.
- ^ 第15回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第5号 昭和28年2月19日
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、254頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第7352号, 叙任及辞令.
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第5029号, 叙任及辞令.
参考文献
[編集]- 書籍
- 衆議院、参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館『平成新修旧華族家系大成』 下巻、吉川弘文館、1996年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 官報
- 『官報』 第7352号、1907年12月28日。
- 『官報』 第7941号、1909年12月11日。
- 『官報』 第5029号、1943年10月15日。
日本の爵位 | ||
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先代 広幡忠朝 |
侯爵 広幡家第3代 1905年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |