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弘田琢磨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年(天保14年)7月12日 - 1920年(大正9年)2月22日)は、明治時代の教育家

略歴

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土佐国高岡郡押岡村(現:須崎市)に生まれる。父は高知藩士の弘田潤造

真面目な性格で、特に武技を好み激剣柔道の奥義を究めた。少壮藩に謹志して藩士の鼓舞教導に努めた。

戊辰戦争に従軍し、廃藩置県後、県立高知中学校が創立した際には教師となって漢文を教えた。厳格でよく生徒を諭し、多くの生徒から敬慕されていた。また、郷里の為に基金を投じ、学校を設立して子どもたちの教育に力を注いでいた[1]

山河を開拓して公園を作るなど公共事業に大きく貢献した。村町の人たちはこれを讃えて弘田公園と呼んだ。

東京の地にて病死。享年78。墓地は染井霊園北部[2]

脚注

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  1. ^ 下中邦彦 「日本人名大辞典」 第五巻 平凡社、1979年
  2. ^ 染井霊園(北部)”. 2023年9月5日閲覧。

外部リンク

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