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弥勒寺 (東海市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
弥勒寺

本堂
所在地 愛知県東海市大田町寺下4
位置 北緯35度1分22.724秒 東経136度53分57.581秒 / 北緯35.02297889度 東経136.89932806度 / 35.02297889; 136.89932806座標: 北緯35度1分22.724秒 東経136度53分57.581秒 / 北緯35.02297889度 東経136.89932806度 / 35.02297889; 136.89932806
山号 待暁山
宗旨 真言宗
宗派 智山派
本尊 弥勒菩薩
創建年 (伝)天平勝宝元年(749年)、もしくは(伝)弘仁5年(814年
開山 (伝)行基、もしくは(伝)空海
中興年 元禄年間(1688年 - 1704年
中興 徳川光友
別称 大里の大坊
札所等 知多四国霊場第83番札所
文化財 木造弥勒菩薩座像、木造金剛力士立像(ともに東海市指定文化財)
法人番号 5180005012638 ウィキデータを編集
弥勒寺 (東海市)の位置(日本内)
弥勒寺 (東海市)
弥勒寺 (東海市)の位置(愛知県内)
弥勒寺 (東海市)
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弥勒寺(みろくじ)は、愛知県東海市大田町にある真言宗智山派の寺院。知多四国霊場の第83番札所である。

沿革

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天平勝宝元年(749年)に行基創建した[1]とも、弘仁5年(814年)に空海創建した[2]とも伝えられる。

最盛期には一山六ケ寺七堂伽藍を有したというが、関ヶ原の戦いで西軍についた九鬼嘉隆の軍勢による襲撃を受け[注釈 1]、仁王門と本尊の弥勒菩薩を除いて焼失してしまう。

元禄年間(1688年 - 1704年)になって、尾張藩第2代藩主・徳川光友寄進により再建された[注釈 2]

その後、江戸時代後期から明治時代半ばにかけて無住状態が続く[3]など再び衰退するも、大正時代に入ってから境内の宝篋印塔が「現世利益の祈願塔」として知られるようになり[1][4]、再興を果たす。

境内

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  • 仁王門 - 平成20年(2008年)に改修。正面と境内側(内側)に、金剛力士が新旧一対ずつ(計4体)安置されている。正面の金剛力士は、知多四国霊場開創200年を記念し造立されたもの[5]で、愛・地球博の際に瀬戸会場・市民パビリオンで公開制作された[6]。境内側(内側)の金剛力士は、東海市指定文化財(後述)。
  • 手水舎
  • 本堂 - 本尊弥勒菩薩(東海市指定文化財、後述)を安置する。
  • 客殿(大師堂) - 弘法大師興教大師不動明王が祀られている。
  • 宝篋印塔堂 - 八角形の拝殿のなかに、宝暦5年(1755年)に建立された宝篋印塔が祀られている。「お塔さま」と呼ばれ、多くの人の信仰を集める。
  • (白山大神、伏見稲荷、天満宮)
  • 庫裏

ギャラリー

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文化財

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金剛力士像(阿形、2016年10月)
金剛力士像(吽形、2016年10月)

東海市指定文化財

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木造弥勒菩薩座像[7][8][9]
座高約80cm、材の寄木造。『張州雑志』には行基の作とあるが、実際は室町時代の作とされる。像容は飛鳥時代奈良時代の弥勒像と異なり、小塔を捧げ持つ平安時代中期以降の形式。輪光は、寛永17年(1640年)に住持・政久が、像の開帳にあわせて作り奉納したとされる。
木造金剛力士立像(仁王像)[7][10]
阿形は高さ272.6cm、(一部)材の寄木造。吽形は高さ273.1cm、楠材の一木造。平安時代末期(12世紀頃)の作と考えられており[11]、もともと運得寺(東海市荒尾町)にあったものを応仁2年(1468年)に移設したと伝えられる。長年の風雨にさらされ、傷みが激しい。

その他

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錫杖
知多四国八十八箇所を開創した一人である、武田安兵衛が携帯していたもの。

御詠歌

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限りなき 弥勒の御世に 大里の 法の御庭に となふ声明

その他

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境内北東方の台地には、かつて寺坊が軒を連ねていたと伝えられてきた。同地でのマンション建設に伴い、平成8年(1996年)に東海市教育委員会が発掘調査したところ、弥生時代の土坑や古墳時代須恵器戦国時代の「天文十五年」(1546年)銘を持つ天目茶碗等の陶器・五輪塔の笠・焼けた壁土等が出土し、「知多弥勒寺遺跡」と名づけられた[12]

所在地

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アクセス

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鉄道(公共交通機関)
自動車(自家用車)

注釈

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  1. ^ 織田信長の兵火によるともいわれる[2]
  2. ^ 織田信長による兵火の後、天文11年(1542年)に顕昌という僧が再興したともいう[2]

出典

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  1. ^ a b 東海市史 通史編 & 1990年, p. 1037.
  2. ^ a b c 横須賀町誌 & 1928年, p. 231.
  3. ^ 横須賀町史 & 1969年, p. 807.
  4. ^ 知多四国巡礼 & 2013年, p. 189.
  5. ^ 「ピカピカ仁王像 東海市の弥勒寺 僧らが精入れ」、中日新聞2008年5月25日付朝刊、知多版、20頁
  6. ^ 宮崎仁美「愛・地球博 万博秋天 千年先見据え仏像彫り 地元の仏師が実演」、中日新聞2005年9月16日付朝刊(万博面)、7頁
  7. ^ a b 境内文化財説明板(東海市教育委員会設置)
  8. ^ 東海市の文化財 & 1990年, p. 23.
  9. ^ 東海市の文化財”. 東海市. 2016年11月2日閲覧。
  10. ^ 東海市の文化財”. 東海市. 2016年11月2日閲覧。
  11. ^ 松本芳孝「仁王像は800歳 東海の弥勒寺 県文化財保護審委員ら調査」、中日新聞2005年5月25日付朝刊、知多版、20頁
  12. ^ 愛知県東海市知多弥勒寺遺跡発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧”. 奈良文化財研究所. 2016年11月2日閲覧。

参考文献

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  • 境内文化財説明板(東海市教育委員会設置)
  • 石川松衛『横須賀町誌』愛知県史跡編纂会・知多郡横須賀町役場、1928年。 
  • 横須賀町史編集委員会編 編『横須賀町史』横須賀町役場、1969年。 
  • 東海市教育委員会編 編『東海市の文化財』東海市教育委員会、1990年。 
  • 東海市史編さん委員会編 編『東海市史』 通史編、愛知県東海市、1990年。 
  • 知多四国霊場会監修 編『知多四国巡礼決定版地図ガイド』(改訂新版)歴遊舎、2013年。ISBN 978-4904896020