張厚琬
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張厚琬 | |
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プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清直隷省天津府南皮県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 張厚琬 |
簡体字: | 张厚琬 |
拼音: | Zhāng Hòuwǎn |
ラテン字: | Chang Hou-wan |
和名表記: | ちょう こうえん |
発音転記: | ヂャン ホウワン |
張 厚琬(ちょう こうえん)は中華民国の軍人・政治家。字は忠蓀。張之洞の孫(長男の子)。張燕卿や張仁蠡は叔父にあたるが、厚琬の方が年上である。従妹(仁蠡の娘)に張厚粲(心理学者・中国人民政治協商会議全国委員会委員)がいる。
事績
[編集]清末に日本へ留学し、1911年(宣統3年)に陸軍士官学校第8期砲兵科を卒業した。帰国後の1912年(民国元年)12月に、北京陸軍大学教務長に就任している。その後、奉天派に属し、1922年(民国11年)には東省巡閲使署参謀処長などを歴任した。
1924年(民国13年)11月、張厚琬は北京政府で陸軍部次長に抜擢されている(翌年12月まで在任)。1926年(民国15年)7月、航空署督弁に任命され、翌年6月、航空署が北京政府軍事部に帰属したことに伴い、航空次長に転じた。同年、奉天市の陸軍講武堂で教務長に就任、後に校長に昇進している。その後、中東鉄道路警処処長に転じた。
国民政府による統一後の1932年(民国21年)4月、張厚琬は軍事委員会委員長侍従室高級参謀に就任した。1934年(民国23年)11月、河北省政府委員兼民政庁庁長に任ぜられ、省政府主席の于学忠を補佐している。翌1935年(民国24年)6月、河北省政府主席代理を務めたが、まもなく梅津・何応欽協定(何梅協定)が影響して于が罷免されたため、張も辞任を余儀なくされた。
これ以降、張厚琬の動向は不詳となっている。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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