張夔
張 夔(ちょう き、生没年不詳)は、中国三国時代の呉から西晋にかけての政治家。子は張隠。
生涯
[編集]天紀4年(280年)、西晋が呉を征伐したとき、西晋の軍が呉の首都に迫り敗北が間近に迫っていた。呉の末帝孫晧は、光禄勲の薛瑩・中書令の胡沖らの計をいれて、西晋の王濬・司馬伷・王渾のそれぞれに使者を遣わし書簡を送った。
「昔、漢の王室が天下統合の能力を喪失し、九つの州がばらばらになったとき、わが先人は、時運に乗じ、江南の地を手中に収めて山川を分けへだてて、魏とは別の独立勢力を作ることとなりました。ただいま大いなる晋の国が昇龍の勢いで興り、その恩徳は全世界をおおっておるのですが、闇愚なる私は、なおざりの安定にしがみついて、天命のうつりゆきが分からぬのでありました。その結果、現在、天子の六軍をわずわらせ、兵車は遠征の途にのぼり、遠く長江のみぎわまで兵を進められることとなりました。この天子の六軍の威に国をあげて恐れおののき、余命いくばくもない息をついておるような次第であります。ここにあえて天朝の広大なご度量と輝かしいご恩徳とをおたよりすべく、私任の官である太常の張夔らを謹んで遣わして、身に佩びておりました印綬を泰還し、臣下として寛大なご裁量をお待ちしたく存じます。どうかお願いをおききいれくださり、一平民たる私めをお救いくださいますように[1]」
このことから、呉末に張夔は太常であったことが伺われる。
呉滅亡後、張夔は西晋に仕えた。
ある時、鄱陽郡の孝廉である范逵は雪の降り積もる日に陶侃の家を訪問した。だが、突然の来客であった為、陶侃にはもてなす物が何も無かった。陶侃の母は自分の長髪を切って二つのかつらを作ると、それを酒や料理と換えた。范逵は存分に酒を飲んで大いに楽しみ、彼の従者もかつてないほどの接待を受けた。范逵が家を離れる時、陶侃は彼を百里余り先まで見送った。その時范逵は「君は郡に仕える気はあるかね」と尋ねると、陶侃は「仕えたいと思いますが、推薦してくれる人がおりません」と言った。范逵は当時廬江郡太守だった張夔[2]に接見すると、陶侃を全力で賞賛した。張夔は彼を召し出して督郵に任じ、樅陽県令を兼任させた。
またある時、張夔の妻が病気にかかり、数百里先の医者を迎えに行かなければならなくなった。この時、大雪のために外は極寒であり、主簿を始めとした役人達はみな行くのを躊躇った。だが、陶侃だけは「子は父に尽くし、臣下は主君に尽くすのが忠義である。太守の夫人は我らの母上に等しい。父母が病にあって心を尽くさない子女がどこにいるというのだ」と言い、自らが行くことを求めると、人々はみなその義理堅さに感服した。
のちに、張夔は陶侃を孝廉に推挙した。陶侃は都の洛陽に上り張華に評価され、その後多大な功績を重ねて出世を続け、東晋の侍中・太尉・都督荊江雍梁交広益寧八州諸軍事・荊江二州刺史・長沙郡公にまで出世した。陶侃は張夔の子の張隠を参軍に任じ、また范逵の子の范珧を湘東郡太守に任じ、旧恩に報いたという[3]。