張始均
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張 始均(ちょう しきん、生年不詳 - 519年)は、北魏の官僚・学者。字は子衡。本貫は清河郡東武城県。
経歴
[編集]張彝の子として生まれた。正直清廉で学問を好み、文才があった。司徒行参軍となり、著作佐郎に転じた。父の孝文帝時代の旧功により、始均は宣武帝に左民郎中に任じられた。郎中を兼ねたまま、員外散騎常侍に転じた。始均は陳寿の『魏志』を編年体に改め、広く異聞を増補して、30巻本に仕立てた。さらに『冠帯録』や諸賦数十篇を著したが、いずれも亡失した。
515年(延昌4年)、大乗の乱が冀州と瀛州の間に起こり、都督の元遥が派遣されてその反乱が鎮圧された。このとき多くの人が殺戮され、数万の遺体が積み上げられた。始均は郎中として行台をつとめ、首級の重さによって軍士の功績を計量した。検査後の数千の首級は始均の指示で焼かれて灰燼となった。
519年(神亀2年)2月庚午、羽林1000人あまりが張彝の邸を焼き討ちし、張彝を殴打した。始均は父を庇って殴られ、生きたまま火の中に投げ込まれて焼き殺された。楽陵郡太守の位を追贈された。諡は孝といった。