張孝栘
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張孝栘 | |
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プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年)[1][2] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清湖北省武昌府鄂城県[1][2] |
職業: | 司法官・法学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 張孝栘 |
簡体字: | 张孝栘 |
拼音: | Zhāng Xiàoyí |
ラテン字: | Chang Hsiao-I |
和名表記: | ちょう こうい |
発音転記: | ヂャン シアオイー |
張 孝栘[注 1](ちょう こうい、1881年 - 没年不詳)は中華民国の司法官・法学者。字は棣生。別号は逖省。
経歴
[編集]日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[3]。帰国後は京師法政学堂及び京師法律学堂の教習(教官)となる。以後、修訂法律館纂修、憲法編査館科員、北京政府大理院推事を歴任した。1915年(民国4年)、総検察庁首席検察官に任命される。1928年(民国17年)4月、総検察庁検察長暫定代理となった。その後、国立北平大学法学院教授、国立北京大学法律系講師、河北省立法商学院法律系教授を歴任している[1]。
1937年(民国26年)12月、北京に中華民国臨時政府が成立すると、張孝栘もこれに参与する。翌1938年(民国27年)2月19日、最高法院(院長:董康)検察署検察長に任命された[2][4]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。臨時政府最高法院も汪兆銘政権の最高法院華北分院へ改組され[注 2]、同年5月28日に張孝栘が分院院長として任命された[5]。以後、1945年(民国34年)8月の汪兆銘政権崩壊までその地位にあった[6]。その後の消息は不明である。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。
- 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。