張錫元
張 錫元 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1870年(同治9年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清 直隷省順天府密雲県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 張 錫元 |
簡体字: | 张 锡元 |
拼音: | Zhāng Xīyuán |
ラテン字: | Chang Hsih-yüan |
和名表記: | ちょう しゃくげん |
発音転記: | ジャン・シーユエン |
張 錫元(ちょう しゃくげん)は、中華民国の軍人。北京政府、直隷派に属した。字は嘏民。最終階級は陸軍上将。
事績
[編集]山海関武備学堂卒業後、定武軍の教習に就任する。1911年(宣統3年)、河南新軍第29混成協(協統:応竜翔)第58標標統に就任した。同年10月の武昌起義当時、歩兵1個営を率いて湖北省に向かう。後日、更に歩兵1個営騎兵2個隊・砲兵1個隊(中隊)を河北省滄県劉家廟に派遣、鎮圧に向かう[1][2]。応竜翔は革命派と内通していたため河南巡撫の宝棻に拘束され[1]、後任として第29混成協協統に昇進する。
1912年(民国元年)、混成協は混成旅に改組され、張錫元はそのまま同旅長をつとめる。10月11日、少将[3]。また12月30日、陸軍中将昇進とともに河南陸軍第1師師長に昇進した[4]。1914年(民国3年)9月14日、第9師に改編され、引き続き師長を務める[5]。1915年(民国4年)7月29日、北京への異動を命じられ[6]、1916年(民国5年)、京畿歩兵第2旅旅長に転任した。
翌1917年(民国6年)8月30日、第2旅は第4混成旅に改編され引き続き旅長[7][8]。1918年(民国7年)、胡景翼率いる陝西靖国軍を討伐した。1921年(民国10年)9月13日、陝西省で潼関鎮守使を兼任する[9]。1922年(民国11年)5月29日、察哈爾督統に就任した[10]。同年9月4日、錫威將軍[11]。1923年(民国12年)11月14日、陸軍上将晋授[12]。1924年(民国13年)9月26日、察区防務総司令[13]。12月、国民軍が察哈爾に進軍してくると、圧力を受けて病気を理由として辞任した[14]。
以後、張錫元の行方は不明である。
脚注
[編集]- ^ a b 全国政協文史資料研究委員会 編 (2012). 辛亥革命回憶録5. 中国文史出版社. p. 304
- ^ “河南通鑒(上)1920年” (中国語). 河南省情网_河南省地方史志辦公室. 2020年4月29日閲覧。
- ^ “政府広報第164号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第239号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第849号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第1159号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第583号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ 丁文江 (2007). 民国軍事近紀 広東軍事紀. 中華書局. p. 8. ISBN 9787101055320
- ^ “政府広報第1997号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第2242号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第2338号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第2755号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第3058号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “政府広報第3139号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2020年6月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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