張開儒
張開儒 | |
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プロフィール | |
出生: | 1869年(清同治8年) |
死去: |
1935年(民国24年)7月7日 中華民国雲南省昆明市 |
出身地: | 清雲南省東川府巧家庁 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 張開儒 |
簡体字: | 张开儒 |
拼音: | Zhāng Kāirú |
ラテン字: | Chang K'ai-ju |
和名表記: | ちょう かいじゅ |
発音転記: | ジャン カイルー |
張 開儒(ちょう かいじゅ)は、清末民初の軍人。滇軍(雲南軍、雲南派)の指導者の1人。滇軍の中では、孫文を一貫して支持し続けた。字は藻林。
事跡
[編集]清末から護国戦争まで
[編集]1885年(光緒11年)、秀才となる。1901年(光緒27年)、昆明に赴いて五華書院に入る。後に武備学堂に入って軍事を学んだ。
1904年(光緒30年)、日本に留学し、東京振武学校、陸軍士官学校に入学した。1905年(光緒31年)、中国同盟会に加入し、革命派の雑誌である『民報』や『雲南』雑誌の刊行に携わった。1908年(光緒34年)、陸士歩兵科を卒業して帰国し、雲南陸軍講武堂教官兼提調に就任した。1911年(宣統3年)10月、武昌起義に呼応して昆明で起きた革命派の蜂起(重九起義)に参加した。
雲南軍政府が成立すると、張開儒は援川軍第1梯団副梯団長兼聯隊長(梯団長は謝汝翼)に任命される。そして、四川省の革命派を支援するために遠征した。1913年(民国2年)、滇軍迤南辺防第1旅上校旅長に任命され、開化(現在の文山市)に駐屯した。1915年(民国4年)12月、護国戦争(第三革命)が勃発すると、護国軍第2軍第1梯団長(軍長は李烈鈞)として、広西省、広東省へ遠征した。
護法戦争以降
[編集]1916年(民国5年)6月、護国戦争終結後は、韶関(広東省)に駐屯した。同年、護国軍第2軍が滇軍第3師、第4師に改変されると、張開儒は第3師師長となり、あわせて南韶連鎮守使を兼任した。1917年(民国6年)9月、孫文が広州軍政府(護法軍政府)を樹立すると、張は軍政府陸軍部総長に任命された。しかし、1918年(民国7年)5月に大元帥制が総裁制(7総裁による集団指導制)に改められると、まもなく孫文は失脚する。張もまた総裁の1人唐継尭(滇軍)の排斥に遭って各役職から罷免され、ついには逮捕・収監されてしまう。
1920年(民国9年)11月、広西派や主席総裁岑春煊の失脚に伴い、張は釈放され、護法滇軍総司令に任命された。しかし、今度は広東軍の陳炯明により武装解除されてしまった。1921年(民国10年)2月、孫文から雲南北伐軍副総司令に任命された。
1922年(民国11年)3月、顧品珍に追われていた唐継尭が雲南に戻って復権すると、これに備えるために広西の柳州などに駐屯した。同年6月、陳炯明が孫文と決裂してこれを攻撃すると、張は陳の討伐に向かった。ところが途中の桂平(広西省)で、部下の楊希閔に軍権を奪い取られてしまう。
1923年(民国12年)4月、孫文の陸海軍大元帥大本営において参謀長に任命された。同年10月、参軍長に異動し、陸軍上将の位を授与された。1924年(民国13年)9月、大本営高等顧問となったが、まもなく辞任し、以後はマカオに寓居した。1927年(民国16年)、昆明に戻り、雲南省政府顧問として省政府主席竜雲に助言した。
1935年(民国24年)7月7日、昆明にて死去。享年67。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国軍政府
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広東大元帥府
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