後藤鉀二
ごとう こうじ 後藤 鉀二 | |
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生誕 |
1906年11月13日 東京府 |
死没 | 1972年1月22日(65歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 教育者 |
著名な実績 |
名古屋電気大学創立者 愛知工業大学初代学長 |
後藤 鉀二(ごとう こうじ、1906年11月13日 -1972年1月22日)は、日本の教育者。
日本卓球協会会長としてピンポン外交に尽力、1971年の世界卓球選手権名古屋大会に文化大革命以来2大会連続で欠場していた中国の大会復帰を実現[1][2]、大会中に起きた中国の元世界チャンピオンの荘則棟、アメリカ人選手、グレン・コーエンとの交流から米中関係改善、日中国交正常化につながった。
経歴
[編集]東京府で生まれ、名古屋市で育った。父親は名古屋電気学講習所創立者の後藤喬三郎。1925年1月30日に父親が死去し、19歳で名古屋電気学校(現愛知工業大学名電高等学校)校主となった[3]。1926年に浜松工業学校電気科(現静岡大学工学部)に入学し剣道と卓球を始めた[4]。
日中戦争が勃発後、1937年8月から1940年まで通信隊の輜重伍長として中国大陸に派遣されたがその間1938年12月から1年以上駐留した山西省では現地の中国人とも卓球を行っている[4]。1945年3月12日の名古屋大空襲により名古屋電気学校の若水校舎にも焼夷弾が投下されたが教員、生徒と共に努力し焼失を免れさせた[3]。しかし、ジフテリアのため名古屋大学病院に入院していた1歳半の長男が鶴舞公園に避難した後、病状が悪化し14日に亡くなった[4]。
その後、愛知工業大学学長、1963年より日本卓球協会会長[5]、またアジア卓球協会(ITTA)会長、国際卓球連盟会長代理などを歴任した[4]。
1971年、世界卓球選手権名古屋大会を前に世界一のものとするべく[6][7]西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、二つの中国の問題解決に必要な処置(台湾をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断[4][8]、香港を経由して中国に渡り交渉を行った。交渉には一時暗雲が垂れ込めたが周恩来が交渉に乗り出し後藤の立場に配慮をした結果、成功に終わった[9][10][4][11][12]。これに対して文部省からのクレーム、右翼からの脅迫などの反応が見られた[4]。
1972年1月22日、心筋梗塞、解離性大動脈瘤のため亡くなった[4][13]。
彼の死から4ヵ月後にアジア卓球連合(ATTU)が16カ国の参加により結成され彼の女婿である後藤淳が初代会長に就任した[4]。彼の業績に対して横山利秋衆議院議員は「外務省のお役人にはとてもできない仕事」と評した[4]。中国の卓球代表チームは日本を訪問した際にはまず名古屋で後藤の墓参りをすることになっている。と徐寅生・中国卓球協会会長は述べている[14]。
脚注
[編集]- ^ “選手から大臣…隔離も『ピンポン外交』荘則棟氏”. 東京新聞 (2008年7月8日). 2011年6月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月24日閲覧。
- ^ “第46回世界卓球選手権 特集”. バタフライ. 2011年5月14日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “沿革”. 愛知工業大学名電高等学校同窓会. 2011年5月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 鄭躍慶 (2007年). “「ピンポン外交と後藤鉀二」” (PDF). 愛知淑徳大学. 2011年5月14日閲覧。
- ^ “後藤鉀二”. コトバンク. 2011年5月14日閲覧。
- ^ “映像の記憶~タイムトリップ50~”. 東海テレビ. 2011年5月14日閲覧。
- ^ “ピンポン外交と後藤鉀二氏”. China Internet Information Center. 2011年5月14日閲覧。
- ^ 「台湾除き中国招く・名古屋で開く世界卓球後藤協会長が決意」毎日新聞 1970年12月31日
- ^ ““ピンポン外交”地球を走る”. 日本卓球協会. 2011年5月14日閲覧。
- ^ “中日卓球交流の50年”. 中華人民共和国駐大阪総領事館 (2006年6月1日). 2011年5月14日閲覧。
- ^ “周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって”. 人民中国 (2008年3月24日). 2011年5月14日閲覧。
- ^ “周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって”. 人民中国. 2011年5月14日閲覧。
- ^ 「世界卓球に執念・豪快な笑い今はなし」朝日新聞 1972年1月22日夕刊
- ^ “中日卓球交流の50年”. 人民中国 (2006年6月10日). 2011年5月14日閲覧。