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徐度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徐 度(じょ たく、509年 - 568年)は、南朝梁からにかけての軍人は孝節。本貫安陸郡

経歴

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建康に代々の居をかまえ、成長すると容貌魁偉で、酒をたしなんで博打を好み、従僕たちに家畜の屠殺や酒の売買をさせた。蕭介始興郡内史として郡に赴任すると、徐度は蕭介に従い、軍を率いて山岳の少数民族たちを討った。陳霸先交州李賁を討つと、これに従軍した。

陳霸先に従って広州の乱を平定し、蔡路養や李遷仕を撃破するにあたって、軍議に参与し兵を指揮して、戦うたびに功績を挙げた。白茅湾まで進軍すると、湘東王蕭繹により寧朔将軍・南合州刺史に任じられた。侯景の乱が平定されると、徐度は前後の戦功により通直散騎常侍の位を加えられ、広徳県侯に封じられた。散騎常侍の位を受けた。

陳霸先が朱方に駐屯すると、徐度は信武将軍・蘭陵郡太守に任じられた。陳霸先が陳昌荊州に派遣すると、徐度は部下を率いて陳昌に従った。承聖3年(554年)、江陵西魏の侵攻を受けて陥落すると、徐度は間道を通って東帰した。承聖4年(555年)、陳霸先が王僧弁を襲撃するにあたって、徐度は侯安都とともに水軍を率いた。同年(紹泰元年)、陳霸先が杜龕らを討つと、徐度は敬帝を奉じて京口にうつり、宿衛を率いて知留府事をつとめた。

徐嗣徽任約らが北斉軍を率いて侵攻してくると、陳霸先は敬帝とともに建康に帰った。北斉軍がすでに石頭城を占拠していたため、徐度は冶城寺に駐屯して塁を築き、市街への北斉軍の侵入を防いだ。まもなく陳霸先が徐度を救援し、任約らを撃破した。紹泰2年(556年)、徐嗣徽らが再び北斉軍を率い、長江を渡って攻めてくると、徐度は北郊壇で北斉軍を撃破した。功績により信威将軍・郢州刺史に任じられ、呉興郡太守を兼ねた。まもなく徐州縁江諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史に転じた。

永定元年(557年)、陳が建国されると、鎮右将軍・領軍将軍の号を受けた。永定2年(558年)、徐度は水軍を率いて前軍都督となり、南陵に駐屯した。永定3年(559年)、軍を動員して南皖口に築城した。文帝が即位すると、侍中・中撫軍将軍・開府儀同三司の位を受け、爵位は公に進んだ。使持節・散騎常侍・鎮東将軍・呉郡太守として出向した。天嘉元年(560年)、湘東郡公に改封された。侍中・中軍将軍の位を受けた。使持節・都督会稽東陽臨海永嘉新安新寧信安晋安建安九郡諸軍事・鎮東将軍・会稽郡太守として出向した。

天嘉2年(561年)3月、侯瑱湘州で死去すると、徐度が代わって都督湘沅武巴郢桂六州諸軍事・鎮南将軍・湘州刺史となった。天嘉4年(563年)3月、侍中・中軍大将軍となった。

天康元年(566年)、文帝が崩御すると、遺命を受けて武装兵50人を率いて殿省に入った。廃帝が即位すると、司空に進んだ。光大元年(567年)、華皎が湘州で反乱を起こし、北周の兵を沌口に呼び寄せて陳軍と対峙すると、徐度は使持節・車騎将軍の位を加えられ、歩兵を率いて安成郡から山路を取って湘東に進出し、湘州を襲って反乱に加担した軍人や民衆を捕らえた。

光大2年(568年)、死去した。享年は60。太尉の位を追贈された。は忠粛といった。

子の徐敬成が後を嗣いだ。

伝記資料

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脚注

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