徐海東
徐 海東 | |
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徐 海東 | |
渾名 | 徐老虎 |
生誕 |
1900年6月17日 湖北省 黄陂県 徐家窯 |
死没 |
1970年3月25日69歳没 河南省 鄭州市 |
所属組織 | 中国人民解放軍陸軍 |
軍歴 | 1926 - |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
第15軍団長 八路軍第115師第344旅旅長 新四軍第4支隊司令員 |
徐海東 | |
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職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 徐海東 |
簡体字: | 徐海东 |
和名表記: | じょ かいとう |
徐 海東(じょ かいとう)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍の大将。
革命初期から日中戦争にかけての紅軍・八路軍の指揮官。1940年に重病を患い、一線から退いた。
略歴
[編集]湖北省黄陂県徐家窯(現大悟県)に生まれる。1925年4月、中国共産党に入党し、直系軍閥劉佐龍の部隊で軍事教育を受けた。1926年夏、国民革命軍第4軍第12師の排(小隊)長代理となり、北伐戦争に参加した。汀泗橋戦役中、敵の4個砲兵中隊を撃破する功績を挙げ、昇進した。
1927年の革命失敗後、故郷に戻り、河口区農民自衛隊隊長となり、窯工中に中共支部を樹立した。同年11月、黄麻起義に参加。鄂豫皖革命根据地の樹確立中、群衆から「徐老虎」と称された。その後、中共区委員会書記、県赤衛軍大隊長、中国工農紅軍営(中隊)長、団(連隊)長、師長を歴任した。1932年秋、第4方面軍主力が鄂豫皖を離れた後、国民党軍による掃討作戦の情勢下、残留した部隊をまとめ、第25軍、第28軍を創設し、その副軍長、軍長となった。鄂東北、皖西で遊撃戦を展開しつつ、郭家河、潘家河、石門口、葛藤山、長嶺崗、太湖、斛山寨等の戦闘で勝利し、破壊された革命根据地の回復に務めた。
1934年11月、第25軍副軍長に任命され、軍長程子華、政治委員呉煥先と共に部隊を率いて、国民党軍の包囲・追撃を逃れ、2ヵ月後に陝南に進入した。中共鄂豫陝省委書記代理に任命。鄂豫陝革命根据地の確立中、「先疲後打」の作戦方針で遊撃戦を展開した。陝南石塔寺と袁家溝口等の戦闘を指揮し、国民党軍の2次に渡る攻撃を撃退した。
1935年7月、中共中央が川北松潘地区に到達したことを知ると、部隊を率いて甘粛でこれを出迎え、西(安)蘭(州)道を遮断して、敵の大軍を足止めした。9月、第25軍は、陝北永平鎮に到着し、第26軍、第27軍と統合されて第15軍団が編成された。徐海東は、軍団長に任命され、程子華、劉志丹等と共に労山戦役を指揮した。第1方面軍編入後、直羅鎮、東征、西征及び山城堡等の戦役に参加した。1936年12月、中央革命軍事委員会委員となり、紅軍南路軍の総指揮を担任した。
日中戦争初期、八路軍第115師第344旅旅長に任命され、平型関の戦闘と晋東南反「九路囲攻」に参加し、町店等の戦闘を指揮した。1939年9月、劉少奇に従い華中に赴き、新四軍江北指揮部副指揮兼第4支隊司令員に任命され、周家崗の戦闘を指揮して、皖東抗日根据地の発展に寄与した。徐海東は、戦時中に9度負傷し、1940年には重病を患った。
中華人民共和国建国後、中央人民政府人民革命軍事委員会委員、国防委員会委員となり、中共第8回、第9回中央委員に当選した。1955年、大将の階級を授与された。闘病中に、「紅二十五軍戦史」を著作した。文化大革命中、林彪、江青等の迫害を受け、1970年3月25日、河南省鄭州市で死去した。
著書
[編集]- 「紅二十五軍戦史」
外部リンク
[編集]- 徐海東記念館(簡体字)