徐質
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徐質 | |
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魏 討蜀護軍 | |
出生 | 生年不詳 |
死去 |
嘉平6年(254年)[1] 雍州隴西郡襄武県[2] |
拼音 | xú zhì |
主君 | 曹芳[1] |
生涯
[編集]嘉平元年(249年)[3]、蜀漢の姜維は魏に圧力をかけるため、麹山に2つの城を築き、牙門将の句安らに守らせていた。討蜀護軍の官にあった徐質は、陳泰の指揮下で2城を包囲し、彼らの輸送路や水源を断って、降伏へと追い込んだ[4]。
嘉平6年(254年)[1]、姜維の北伐を迎撃(狄道の戦い)。この戦いでは蜀漢の名将張嶷も戦死するが、張嶷の軍が自軍に倍する損害をもたらし[5]、魏軍が敗れ、徐質も戦死に至った[2]。
なお、『三国志』魏書文帝紀には「利成太守の徐質」という記述もあるが、黄初6年(225年)時点で殺害されているため、同名の別人とされる。
三国志演義
[編集]羅貫中の小説『三国志演義』では輔国将軍の官にあり、開山大斧を武器とする猛将として登場。姜維の北伐を迎撃し、諸戦では廖化・張翼相手の一騎打ちで連勝を収める。その後、司馬昭の指示で蜀漢の糧道を断つが姜維には見透かされており、伏兵に挟撃された末に戦死に至る(第109回)。