御園生金太郎
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御園生 金太郎(みそのう きんたろう、1867年(慶應3年)1月 - 1922年(大正11年)5月3日[1])は、日本の教育者。
経歴
[編集]東京府駒込出身。1889年(明治22年)、東京高等師範学校中学師範科を卒業。長崎県師範学校教諭、富山県師範学校教諭・主事、福島県師範学校教諭・主事を歴任し、さらに京都府視学、福井県視学を務めた。1900年(明治33年)、職を辞して高等師範学校研究科で学んだ。その後東京府視学・学務課長となり、東京府立園芸学校、東京府立農林学校、東京府豊島師範学校、東京府立第四高等女学校などの新設に尽力した。東京府豊島師範学校が設立されると、教頭となり、1914年(大正3年)に校長に昇格した。
著書
[編集]- 『受験適用 教育学』(成文社、1903年)
- 『国民教育 戦時講話』(日本書籍、1905年)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2937号、大正11年5月19日。
参考文献
[編集]- 五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
公職 | ||
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先代 黒田定治 |
東京府豊島師範学校長 1914年 - 1922年 |
次代 桜井賢三 |