御籠島
愛称: 大島、御島 | |
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佐田岬と御籠島。右から延びるのが佐田岬。中央左の平場の先にあるのが御籠島。 | |
地理 | |
場所 | 瀬戸内海(伊予灘) |
座標 | 北緯33度20分39.3秒 東経132度0分48.1秒 / 北緯33.344250度 東経132.013361度座標: 北緯33度20分39.3秒 東経132度0分48.1秒 / 北緯33.344250度 東経132.013361度 |
諸島 | 芸予諸島 |
面積 | 5,300 m2 (57,000 sq ft) |
最高標高 | 36 m (118 ft) |
行政 | |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 西宇和郡 |
町 | 伊方町 |
人口統計 | |
人口 | 0 |
追加情報 | |
時間帯 |
御籠島(みかごじま)は、愛媛県佐田岬の先端にある島。愛媛県西宇和郡伊方町(旧・三崎町)に属し、地元では大島(おしま)あるいは御島(おしま)とも呼ばれる。佐田岬灯台の100m西にある[1]。四国の最西端に位置する。瀬戸内海国立公園の一部ともなっている。最高点は標高36m、面積5300平米[2]。
歴史
[編集]江戸時代には、海上交通安全の神としてこの島に野坂権現(現在の野坂神社)[3]が祭られており、神聖な島とされていた[2]。
1945年2月、芸予要塞の一部として、この島の内部をくり抜いて佐田岬砲台の第4砲台の工事が開始され[4][5]、突貫工事で半年ほどで完成するが、程なく終戦となり砲台は廃止される[5][4][6]。設置されていた三八式十二糎榴弾砲は進駐軍の指示で解体された。
1967年3月、当時の三崎漁協が、出荷管理のために佐田岬と御籠島の間の狭い海峡に畜養池[7]を作ったため、佐田岬と陸続きとなったが、漁協所有施設のために一般人の立ち入りは禁止された[1]。2010年に蓄養池は使用されなくなったが、畜養池は海と繋がっているので、現在でも畜養池の中に魚の群れを見ることが出来る[2]。
1973年11月、第25金光丸救命地蔵という碑が建立されているが、詳細は不明である。
2017年4月、伊方町によって「佐田岬灯台点灯100年記念」として周辺の整備が行われた。佐田岬灯台からの遊歩道が新たに200m造成され、御籠島に一般者が渡れるようになった。佐田岬灯台公園「御籠(みかご)島エリア」として、四国最西端の御籠島展望所、灯台点灯100年記念のモニュメントが作られた他、太平洋戦争末期に御籠島をくり抜いて作られた佐田岬第4砲台が再整備され、内部が見学できるようにされた[8]。周囲には説明用の掲示やトイレ、榴弾砲のレプリカも配置された[9]。
アクセス
[編集]佐田岬灯台の駐車場からアップダウンがある遊歩道進み、佐田岬灯台へ上る直前の階段を登らずに右側(北側)の海岸方面に降りて漁協の畜養池へ進む。灯台の駐車場からは距離1500m、徒歩25分[2]。
ギャラリー
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御籠島の穹窖砲台
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御籠島から見た佐田岬灯台と第3砲台(中央)と畜養池(左)
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御籠島の穹窖砲台内部。三八式十二糎榴弾砲(レプリカ)が設置されている
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御籠島にあるモニュメント
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御籠島へ至る遊歩道
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第25金光丸救命地蔵の碑
出典
[編集]- ^ a b カメラスケッチ 佐田岬灯台公園「御籠島エリア」オープン 2017年4月4日(火)(愛媛新聞)
- ^ a b c d 現地の案内看板の記載による 伊方町 教育委員会 2017年11月11日確認済
- ^ 伊方町正野地区の佐田岬漁港のすぐそばにある神社。昔から瀬戸内一円の漁師たちが参拝に訪れたと言われる。
- ^ a b (戦争遺跡を訪ねて:1)佐田岬砲台 火を噴くことなく敗戦 /愛媛県 朝日新聞 2016年08月15日 大阪地方版/愛媛 21頁 愛媛全県 写図有 (全1,058字)
- ^ a b 歴史の証人 戦争遺跡 愛媛新聞 2015年08月02日 ジュニアえひめ ピントW (全1,807字)
- ^ 忠魂碑 犠牲者の名刻む(眠る砲台跡 佐田岬半島から:6)/愛媛 朝日新聞 1999年08月21日 大阪地方版/愛媛 29頁 愛媛 写図有 (全727字)
- ^ 海産物の出荷調整用の「いけす」のこと
- ^ 愛媛)佐田岬灯台望む展望台など整備 砲台跡にレプリカ 朝日新聞 2017年4月3日03時00分 2017年11月14日閲覧
- ^ 伊方町 佐田岬灯台にニューエリア「御籠島エリア」が誕生! 愛媛新聞 2017年5月11日(木) (伊方町)