兵役逃れ
兵役逃れ(へいえきのがれ)とは、各国の法律による兵役(徴兵制度)を逃れる行為で、一般に兵役に初めから参加しないで済ませる行為を指す。徴兵逃れ(ちょうへいのがれ)、徴兵忌避(ちょうへいきひ)、兵役拒否(へいえききょひ)ともいう。
「人を殺すことはできない」などの思想や信条に基づいて兵役を拒むのは良心的兵役拒否と呼ばれるが、国と時代によってはこれも「兵役逃れ」の一種として扱われる。
概要
[編集]この記事は世界的観点から説明されていない可能性があります。 (2023年11月) |
戦国期の雑兵は徴発される代わりに、八貫文(現代で40万円)を出せば、あがなえた[1]。
徴兵制のあった戦前日本の兵役法によれば、兵役を免れるために逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなす者は3年以下の懲役、現役兵として入営すべき者が正当の事由なく入営の期日から10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮に処せられ、戦時は5日を過ぎた場合に1年以下の禁錮、正当の事由なく徴兵検査を受けない者は100円以下の罰金に処せられる(74条以下)と規定されていた。
鶴見俊輔は、結核にもかかわらず何故か徴兵検査に合格した[注釈 1]ので軍属(海軍のドイツ語通訳)になって逃れるしかなかったが、三島由紀夫は入営検査の時(徴兵検査は合格していた)に風邪による気管支炎を肺浸潤と誤診され、即日帰郷となった[2]。
兵役逃れは、親などが入れ知恵の措置を講ずる例も多かった。西田幾多郎の父は、1868年(明治元年)生まれの長男が兵役免除になるという当時の徴兵令の規定から、1870年(明治3年)生まれであった幾多郎を「1868年(明治元年)生まれ」と年齢を2歳多く詐称し、幾多郎の兵役を免れさせている[3]。また、東京生まれの夏目漱石は、兵役免除の期限切れ直前の1892年(明治25年)4月5日に、一部地域を除いて徴兵令が施行されていなかった北海道の縁もゆかりもない後志国岩内郡岩内町に戸籍を移しており、これについて、丸谷才一は漱石の意思による徴兵逃れとするが、蒲生欣一郎は家族の意向が主で、漱石の兵役逃れの意思は従ではないかとしている[3]。
大韓民国
[編集]韓国を例とすれば、男性タレント・スポーツ選手・政治的有力者の子弟といった著名人でも例外なく兵役の対象となるため、「身体的な不都合」などを捏造し、兵役逃れを行っていることが社会的な問題となったことがある。全てが兵役逃れの結果ではないが、2014年に行われた韓国統一地方選挙の立候補者のうち11%が、市長、道知事候補に限れば22%が兵役未了者であった[4]。
ウクライナ
[編集]過去の事例
[編集]兵役逃れの方法として、以下のような事例があった。
また、大正年間には高井戸の神社の神官が「徴兵避けの祈祷」を行っており、1日に数十人が訪れる盛況ぶりを見せていた[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 鶴見は自主的に検査を受検したが、敵国アメリカのハーバード大学卒業という肩書の為に「精神を叩き直して日本国民にせねばならない」という理由のために合格になったのだろうと述懐している。
出典
[編集]- ^ 山口博『日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情』角川ソフィア文庫、2015年、189頁。
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- ^ a b 蒲生欣一郎『鏡花文学新論』(山手書房、1976年)
- ^ “韓国・統一地方選「候補者の4割が前歴者」の衝撃…「有権者の自尊心は?」”. 産経新聞. (2014年6月2日) 2014年6月4日閲覧。
- ^ “増える徴兵逃れ、前線疲弊 賄賂や偽造書類横行―「不公平」と怒りの声も・ウクライナ” (2024年2月24日). 2024年3月17日閲覧。
- ^ “兵役逃れ”目的にサッカー選手92人が自ら肩脱臼
- ^ “軍入隊回避しようと…わざと116キロまで太った20代を摘発=韓国”. 中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします. 2022年9月24日閲覧。
- ^ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p.388 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
関連作品
[編集]- 白居易『新豊折臂翁』(新豊の臂を折りし翁) - 唐代に雲南遠征の兵役を逃れるため自らの腕を折った老人の述懐を歌う。
- 『日本霊異記』中巻三条には、武蔵国の住民・吉志大麻呂が防人に徴用されて九州に赴いたものの、故郷に残した妻への慕情をこらえ切れず、同行していた母親を殺そうとして結局、身を滅ぼす話がある(父母の喪に服す名目で兵役が免除され、故郷に帰れる規則を逆手にとったものである)。
- 『笹まくら』 - 丸谷才一が1966年に発表した長編小説。