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志々伎神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
志自岐神社から転送)
志々伎神社
所在地 長崎県平戸市野子町251番地
位置 北緯33度10分44.15秒 東経129度22分08.55秒 / 北緯33.1789306度 東経129.3690417度 / 33.1789306; 129.3690417 (志々伎神社)座標: 北緯33度10分44.15秒 東経129度22分08.55秒 / 北緯33.1789306度 東経129.3690417度 / 33.1789306; 129.3690417 (志々伎神社)
主祭神 十城別王
社格 式内社(小)
旧県社
創建 不詳
地図
地図
志々伎神社の位置(長崎県内)
志々伎神社
志々伎神社
志々伎神社の位置
志々伎神社の位置(日本内)
志々伎神社
志々伎神社
志々伎神社 (日本)
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志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社旧社格は県社。九州各地に志々岐・志式・志自岐として分社がある。規模が大きく県下の式内社で最大。ここに古くから伝わる神相撲は、今日の相撲の原形といわれる[1][2]。平戸全島で行われるジャンガラも当社から広まったものである。

概要

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創建年代は5世紀頃とも言われるが、正確には不明である。神域は平戸島の南端近くにある志々伎山(標高347.2メートル)を中心としており、古くは山の頂上に上宮、中腹に中宮、麓にある漁村の宮の浦に地の宮(下宮、邊都宮)、そして宮の浦沖の沖ノ島に沖の宮がそれぞれ置かれ、別に別当寺として円満寺が設けられていた。祭神は日本武尊の子、仲哀天皇の異母弟で、神功皇后三韓征伐に従い、その後当地に留まり西国警護を命ぜられたと伝えられる十城別王(十城別命)で、地の宮は王が設けた武器庫を転用したもの、沖の宮は王の墓所であると伝えられている。

延喜式』神名帳において肥前国内では4社ある式内社の一つとしてその名があり、壱岐・対馬地域を除く長崎県内では唯一であり、最も古くから知られた神社である。その後も松浦党諸家や周辺地域漁民の崇敬を広く集めた。

現在の祭祀等の中心は中宮となっている。当初は志々伎山山頂下の祠にあったが、永禄2年(1559年)に中腹に、さらに1961年昭和36年)に明治初年に神仏分離令により廃された円満寺(当社の別当寺)の跡地である現在地に移った。

旧社殿地は1974年(昭和49年)に「旧式内社志々伎神社跡」として長崎県史跡に指定されている。

脚注

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注釈

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参照

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  1. ^ 志々伎神社. 角川日本地名大辞典.JLogos.com
  2. ^ 志々伎神社の祭礼”. 志々伎神社-3. なすび歴史館. 2003年5月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ

関連項目

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