志道元義
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時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 慶長11年(1606年) |
死没 | 寛文5年11月3日(1665年12月9日) |
改名 | 内藤坂千代(幼名)→志道坂千代→志道元義 |
別名 | 通称:勝次郎→忠左衛門尉 |
主君 | 毛利輝元→秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 自称藤原氏秀郷流・道長流内藤氏→志道氏 |
父母 |
父:内藤元珍 母:志道元勝の娘(椙杜元縁の養女) |
兄弟 |
元宣、元義、女(作間政之室)、 女(神村就為室)、女(佐々部就茂室) |
子 | 恒義 |
志道 元義(しじ もとよし)は、江戸時代の武士。毛利氏の家臣で長州藩士。内藤元珍の次男で、兄に志道元宣。
生涯
[編集]慶長11年(1606年)、毛利氏家臣の内藤元珍の次男として生まれる。
慶長20年(1615年)、祖父の内藤元盛(佐野道可)が大坂の陣で豊臣方に味方したため切腹したことに伴い、父の元珍と叔父の粟屋元豊も毛利輝元の命によって切腹し、内藤家は断絶となった。内藤家の断絶により、元宣と元義の兄弟は母方の志道姓を名乗る。元和4年(1618年)12月14日に元服し、輝元から「元」の偏諱を与えられて「志道元義」と名乗り、元和9年(1623年)12月30日に「忠左衛門尉」の官途名を与えられた。
初め輝元の代に小姓として召し出されて以後、輝元、秀就、綱広の3代に仕え、寛文5年(1665年)11月3日に死去した。享年60。跡を子の恒義が継いだ。