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志駄義時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
志駄 義時
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄4年(1561年
別名 志田 義時
墓所 西福寺(東京都豊島区)
主君 上杉謙信
氏族 志田氏
父母 志駄春義
直江景綱の姉
志駄義秀
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志駄 義時 (しだ よしとき、1542年?-1561年)は、戦国時代武将である。上杉氏家臣[1]

略歴

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越後国夏戸城(現新潟県長岡市)の城主であり、1561年第四次川中島の戦いでは直江景綱に従い参戦するも。討ち死にした[2]。嫡男の義秀は当時2歳であり、義秀の母の実家である直江氏が後見人となった[1]

脚注

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  1. ^ a b 北陸道
  2. ^ 史料通信協会叢誌

参考文献

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  • 日本外史-上(1921年、933p)
  • 北陸道(1984)
  • 史料通信協会叢誌(94p)

関連項目

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