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恩智満一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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恩智満一
時代 鎌倉時代末期-南北朝時代
生誕 不明
死没 延元2年6月
別名 恩地正俊、恩地左近満一
墓所 八尾市恩智中町5丁目
官位 贈従四位
主君 楠木正成→楠木正行
氏族 恩智氏
父母 父:恩智満俊、母:不詳
嫡男:恩智満一(?)
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恩智 左近満一(おんぢ みちかず、1337年没?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した豪族楠木正成に従い、俗に「楠公八臣」と呼ばれる武将の一人[1]。また、恩智神社の社家である恩地貞吉の子孫とされ、恩智神社の宮司でもあった。河内国高安郡恩智村(現在の大阪府八尾市)に恩智城を築城したことでも知られ、兵法書「軍用秘術聴書」や「楠兵記」などを編纂したとされている[2]

しかし、恩智左近満一に関する古文書や研究論文が非常に少なく、楠公八臣の中でも特に実在が疑問視され、架空の人物という扱いを受けることもある[要出典]

生涯

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恩智左近満一は恩智満俊の嫡男として生まれ、父とともに楠木正成につかえていた。1334年 - 1338年高安山のふもとに恩智城を築城した。延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)におこった湊川の戦いで楠木正成が戦死したあとは、その子、楠木正行につかえた。また、楠木正成の戦死とともに恩智城も落城した。

湊川の戦いがあった年の末、後醍醐天皇吉野に還幸したが、この時、恩智左近満一は八尾別当賢幸ともに吉野に至り、吉野の守護にあたることとなった[1]。その後も南朝方を守っていたが、不幸にして延元2年(1337年)6月に熱病のため急死した(7月という説もある)[3][4]

系譜

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先祖

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  • 恩智貞吉
  • 恩智満俊(父)

墓所など

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大阪府八尾市恩智中町5丁目にある。恩智神社参道入口鳥居から、東高野街道を南へ進んだ東沿いに「恩智左近旧跡」の碑があり、脇の石階段を上がったところに設置されている。恩地左近満一の墓の敷地内には、八尾市指定保全樹木 指定番号20のくすのきが植えられている[5]。また、墓近くの説明文によると、「生前に自分の冥福を祈って、恩智の有志が建てた」とある。生前に自分で供養する逆修を行ったものとみられる[6]

大正8年(1919年)に恩智左近満一は従四位追贈された[7]

近鉄大阪線恩智駅近くには恩智左近満一と恩智の桜(九桜)の説明板がある[8]

脚注

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  1. ^ a b 楠正行通信 第53 号” (PDF). 四條畷楠正行の会. 2024年3月22日閲覧。
  2. ^ 歌川国芳 作 「英雄六家撰 恩地左近満一」”. 刀剣ワールド/浮世絵. 2024年3月22日閲覧。
  3. ^ 八尾市観光データベース”. www.yaomania.jp. 2024年3月23日閲覧。
  4. ^ 楠正行通信 第53 号”. 四條畷楠正行の会. 2024年3月23日閲覧。
  5. ^ 八尾市観光データベース”. www.yaomania.jp. 2024年3月23日閲覧。
  6. ^ わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/556 東高野街道/52 /大阪”. 毎日新聞. 2024年3月23日閲覧。
  7. ^ 『恩智神社&天川山⑫「恩地城址」』”. 山彦耀Ⅱのブログ. 2024年3月23日閲覧。
  8. ^ てくてくハイク”. 山の辺の道 散策ガイド. 2024年3月23日閲覧。