愛新覚羅載澤
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愛新覚羅載澤 | |
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プロフィール | |
出生: | 1876年 |
死去: | 1929年6月 |
各種表記 | |
繁体字: | 愛新覚羅載澤 |
簡体字: | 爱新觉罗载泽 |
拼音: | Àixīnjuéluó Zàizé |
和名表記: | あいしんかくら さいたく |
発音転記: | アイシンジュエルオ ザイツォ |
愛新覚羅 載澤(あいしんかくら さいたく、満洲語: ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ
ᡯᠠᡞ ᡯᡝ[1] 転写:aisin-gioro dzai-dze、1876年 - 1929年6月)は、清朝末期の宗室。アイシンギョロ氏。鑲白旗人。改革派・立憲派の人物。もとの名は載蕉。字は蔭坪。康熙帝の皇十五子愉郡王胤禑の五世孫にあたる。高祖父は愉郡王弘慶。曾祖父は永珔。祖父は綿岫。父は奕棖。
人物
[編集]嘉慶帝の皇五子恵親王綿愉の四男の奕詢には嗣子がなかったため、詔勅により後を継ぐ。夫人は西太后の弟の承恩公桂祥(グイシャン)の長女の静栄。孝定景皇后静芬(光緒帝の皇后)は静栄の妹。
光緒32年(1906年)、全権大使で来日、憲政を視察した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 愛新覚羅溥儀『我が半生』(原題:我的前半生)
- 郭廷以『近代中国史綱』