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慈眼寺 (新潟県出雲崎町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慈眼寺
本堂
所在地 新潟県三島郡出雲崎町上中条985
位置 北緯37度33分14.6秒 東経138度43分05.6秒 / 北緯37.554056度 東経138.718222度 / 37.554056; 138.718222座標: 北緯37度33分14.6秒 東経138度43分05.6秒 / 北緯37.554056度 東経138.718222度 / 37.554056; 138.718222
山号 福寿山
宗旨 曹洞宗
本尊 聖観世音菩薩
創建年 寛永元年(1624年)
開山 大中寺13世 天南松董
開基 関川弥右衛門
法人番号 8110005006949 ウィキデータを編集
慈眼寺の位置(新潟県内)
慈眼寺
慈眼寺
慈眼寺 (新潟県)
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慈眼寺(じげんじ)は新潟県三島郡出雲崎町の上中条にある曹洞宗の寺院。山号は福寿山(ふくじゅさん)。本尊は聖観世音菩薩。栃木県大中寺末寺

開山は栃木県大中寺(関三刹)13世の天南松薫(1573年 - 1640年)。

本堂は明和5年(1768年)に再建された。

山門は出雲崎町久田の小黒家宅の裏門を移築したとされている。

本堂内に毘沙門堂、境内に阿弥陀堂・地蔵堂がある。

毘沙門天について

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慈眼寺毘沙門天略縁起

そもそも当山の鎮守毘沙門尊天は 人皇46代孝謙天皇の御宇天平年中 行基菩薩 諸国を巡化し暫く錫を停め給ひし際に 村民の懇請により自ら一刀三禮にて彫刻なし給ひたる霊像にして久しく中條教塚の山上に安置し奉りしが 其の後 信徒相謀り一宇を創建して萬法寺と称し遷して本尊とせり 明応2年 川中島の役上杉氏の臣某の焼く所となり 堂宇烏有に帰し 尊像も亦在処を失ひたれは村民悲哀恐懼に堪えさりしか 寛永7年の春 山﨑嘉七 偶ま郊野を過き異光の草裡に輝くを見て走り往て之を視れは尊像なりしかは歓喜踊躍し便ち奉請して当寺に安置し村民始めて蘇生の思をなせり 明治17年5月 当寺13世梵戒和尚 新たに一宇を建立して之を遷し又講中を組織して庶人の参詣を勧進せり 日露の役(日露戦争)起こるに及び久田村 小黒禮治 徴に応して従軍するや 其父母日夜参禮して 其恙無きことを祈ること甚た切なりしが 38年3月6日の夜夢に 一老衲枕上に現れて 我れは是れ慈眼寺の毘沙門天なり 汝等の愛子今や戦地に在て命を失わんとす 汝等の至誠に感して之を救護せり と告て畢て去り給ふ 数日を経て禮治の書到れは 則ち果たして危難に遭ひ 僅に免れたることを報せり 而して其日時等 悉く尊天の夢告に符合せるを以て一家驚喜して霊感の厚きを謝したりしか 遠近相伝へて帰信益す深きを加へり 仏説毘沙門経に曰く若し人 毘沙門神咒を誦すること 一百八偏せは百難悉く消除し福徳共に円満なることを得んと 当山鎮守尊天の霊験によりて 其感応の虚しからさること信奉すへし

— 慈眼寺15世 橋本先功による慈眼寺鎮守略縁記より

現在では毎年5月26日に毘沙門講大般若会があり、その読経中に御開帳される。

慈眼寺本尊の聖観世音菩薩についての伝記

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慈眼寺本尊 厨子

昔、慈眼寺がある上中条集落は山々に囲まれ、すぐ後ろには日本海が広がり、住む家も少なかった。この沢に大きな池があり、その池には恐ろしい毒蛇が住んでいたという。

ある日のこと、この村へどこからともなく行脚してきた一人の僧があった。薄汚い衣を着て、編み笠をかぶり、脚絆草鞋という姿であった。旅の僧は、この不幸な話を聞き、何とか村人の恐怖を救ってやろうといって、恭しく刀をとり、一心込めて聖観世音菩薩の像を刻んだ。そして、でき上がった尊像を前に心静かに読経をし、毒蛇調伏の祈祷をした。

やがて読経が終わると、不思議にも今まであたりに立ちこめていた霧のような毒気が晴れ、毒蛇の姿はどこにも見られなくなったという。

この旅僧は行基菩薩と伝えられ、聖観世音菩薩像は、諸人の祈願に、霊験あらたかといわれている。

— 『出雲崎町史』より[要文献特定詳細情報]

現在、聖観世音菩薩像は、本堂内の釈迦牟尼仏如来坐像の後ろの厨子に納められている。