慕容兆
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生涯
[編集]慕容曦光と太原郡夫人武氏のあいだの子として生まれた[1]。唐の右金吾衛・沁州安楽府果毅都尉となった[2]。738年、慕容曦光が死去すると、慕容兆が後を嗣いだ。739年に叔父の慕容曦輪が烏地野抜勤豆可汗・安楽州都督となっており[3]、この年に慕容兆は死去したとみなす見解も存在する。なお両唐書の慕容兆の条はそれ以後の記述の記述がみられる。吐谷渾の安置されていた安楽州が吐蕃に奪われ、吐谷渾の部衆は東遷して朔方郡と河東郡の境に散在した[4]。これは至徳年間後のこととされる[5]。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 『旧唐書』西戎伝
- 『新唐書』西域伝上
- 大唐故武氏墓誌之銘(慕容曦光妻太原郡夫人武氏墓誌)
- 唐故中郎将開国伯慕容府君墓誌銘并序(慕容曦輪墓誌)
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