慕容臧
慕容 臧[1](ぼよう ぞう、生没年不詳)は、五胡十六国時代の前燕の皇族。昌黎郡棘城県の出身。前燕初代皇帝慕容儁の庶長子。
生涯
[編集]撫軍将軍に任じられた。
光寿2年(358年)9月、濮に割拠する李歴討伐に向かった。慕容臧は李歴を破り、滎陽に敗走させて、その配下を降伏させた。
10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻め、武陽へ侵攻した。慕容臧・太宰慕容恪・司空陽騖が迎撃に向かい、諸葛攸を泰山へ敗走させた。そのまま軍を進めて河南を攻略して、守将を置いて帰還した。
建熙8年(367年)5月、慕容恪が病により重篤に陥り、慕容臧を呼び出した。慕容恪は前燕を狙う東晋と前燕の脅威、呉王慕容垂を大司馬に据えること、身を慎み国家を忘れないこと等を言い遺し、間もなく亡くなった。
建熙10年(369年)6月、東晋の大司馬桓温が前燕へ侵攻に対し、皇帝慕容暐から使持節・南討大都督に任じられ、諸軍を率いての迎撃を命じられた。慕容臧は敗れ、散騎常侍李鳳を前秦に派遣、救援を求めた。
7月、慕容臧に代わり、車騎大将軍慕容垂が使持節・南討大都督に任じられ、対東晋軍の総指揮をとった。
衛大将軍に任じられた。
建熙11年(370年)1月、慕容臧は10万の兵を率いて、前秦軍に攻められている洛陽救援に向かった。慕容臧は新楽に城を築き、石門で前秦軍を破り、将軍楊猛を捕らえた。前秦軍から慕容垂の子の慕容令が慕容臧の元へ出奔してきた。慕容臧は慕容令を鄴へ送った。
滎陽まで進んで屯した。王猛は洛州刺史鄧羌・建威将軍梁成らに1万余の兵で迎撃させた。両軍は石門で戦い、慕容臧は1万余を討ち取られて大敗した。その後、梁成と戦い、3千余を討ち取られ、将軍楊璩が捕らえられた。慕容臧は新楽を捨てて、鄴へ敗走した。
11月、前秦軍により鄴を失陥すると、慕容臧は慕容暐・太傅慕容評・定襄王慕容淵・左衛将軍孟高・殿中将軍艾朗らとともに鄴を脱出して龍城へ向けて逃亡した。
これ以後の事績は、史書に記されていない。
家系
[編集]父
[編集]- 慕容儁 - 字は宣英
兄弟
[編集]姉妹
[編集]- 清河公主 - 苻堅にとついだ
脚注
[編集]- ^ 『資治通鑑』では、慕容咸と記されている。