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成田光弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
成田 光弘
基本情報
出身地 秋田県北秋田郡鷹巣町(現・北秋田市
生年月日 (1942-10-07) 1942年10月7日
没年月日 (2023-10-19) 2023年10月19日(81歳没)
身長
体重
175[1] cm
80[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手外野手
プロ入り 1961年
初出場 1965年
最終出場 1968年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

成田 光弘(なりた みつひろ、1942年10月7日[1] - 2023年10月19日[2])は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現・北秋田市)出身のプロ野球選手捕手外野手)。

来歴・人物

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プロ入り前

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小学生の時、父親が出張のお土産にキャッチャーミットを購入し、野球を始めるきっかけになった[3]

しかし、当時は野球をするには充分な環境がなかったため、本格的に取り組むのは中学校へ進学してからになる[3]

高校進学は当初家が農家だったこともあり、秋田県立鷹巣農林高等学校を希望していたが、秋田市立秋田商業高等学校野球部の勧誘があり、秋田商業高等学校への進学を決めた[3]。甲子園出場は計3回経験している[3]

秋田商業高等学校を卒業後、大毎に入団する。大毎入団の経緯としては他に大洋、西鉄、中日の計4球団から誘いがあったが、秋田商業高等学校OBの三平晴樹がいたことが決め手となった[3]

プロ野球選手時代

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大毎では一軍出場がなかったが、阪急移籍後に一軍公式戦初出場、通算10打数2安打.200の成績を残した。

その後もコーチ補佐としてプロ野球界に在籍していたが、西本幸雄監督の退団と共に1973年限りで引退[3]

プロ野球選手引退後

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引退後は鷹巣町役場で勤務。子供たちの指導をする機会も設けられた。そして指導を始めた矢先、とある選手が目に留まった。中堅手を務めていた中嶋聡。成田は中嶋に目をつけ、阪急のOB会でも「秋田にものすごいのがおる」「絶対に阪急が獲るべきや」と助言[4]。中嶋は高校入学後捕手にコンバートした。その背景には上田利治監督の捕手を求める声もあった[3]。試合では外野手としてプレーさせ、練習でブルペン捕手として中嶋を指導。翌春には後逸する場面もあったものの、捕手としては見れるものになっていた[3]。その後中嶋は強肩と長打力を注目され[3]、実際に阪急へ入団し、活躍していく[4]

その後、2002年から県軟式野球連盟理事、常任理事、副会長を務めた。それぞれの役職を長きにわたって務め、軟式野球の発展、普及への貢献が認められ、2023年4月29日、旭日単光章を受章した[5]

2023年10月19日死去。81歳没[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1965 阪急 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1966 6 3 2 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .500 .667 .500 1.167
1968 9 8 8 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .125 .125 .125 .250
通算:3年 25 11 10 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .200 .273 .200 .473

背番号

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  • 43 (1961年 - 1963年)
  • 69(1964年 - 1973年)

脚注

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  1. ^ a b c 成田光弘”. 週刊ベースボールONLINE. 2023年11月26日閲覧。
  2. ^ a b 令和5年(2023年)10月/お悔やみ/あきた北新聞社”. あきた北新聞. 2023年11月26日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 野球が教えてくれたこと#004成田 光弘”. ボールパーク秋田. 2023年11月26日閲覧。
  4. ^ a b 二宮清純 (2023年9月22日). “オリックス「独走」のリーグV3 中嶋聡監督、秋田の“鉄砲肩”伝説”. Fun:J COM. 2023年11月27日閲覧。
  5. ^ あきた北新聞社・令和5年(2023年)4月29日付記事”. あきた北新聞 (2023年4月29日). 2023年11月27日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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