成田理助
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成田 理助(なりた りすけ、1909年(明治42年)8月18日 - 1988年(昭和63年)4月1日)は、日本の野球評論家。成田は旧姓。本姓は西田。息子は中日ドラゴンズに所属した西田暢。
略歴・人物
[編集]長野県上水内郡三輪村(現長野市)で生まれる。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を経て、1934年(昭和9年)に法政大学法文学部法律学科を卒業する。大学在学中は、野球部選手として活躍し、2回の優勝に貢献する。
1934年東京鉄道局に入局。1940年応召。復員後の1949年に退職し、東鉄野球部監督、東京六大学野球審判員。1951年、明治座入社とともに野球部監督、全日本軟式野球連盟常任理事。1979年日本社会人野球関東連盟副会長。その後は野球評論家として活動する。
次男の西田潔は東洋大学硬式野球部で監督を務め、社会学部名誉教授であった。
1988年(昭和63年)、心不全にて死去、78歳。
著書
[編集]- 『軟式野球』(ベースボール・マガジン社、1960)
共著
[編集]- 『六大学野球部物語』(恒文社、1975)
- 『軟式野球』(ベースボール・マガジン社、1979)
共編
[編集]- 『審判の栞』(秀美堂印刷、1951)