戴陵
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戴陵(たい りょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。曹丕、曹叡に仕えた。戴淩とする書もある[1]。魏において長水校尉を務め関内侯、のちに征蜀護軍となる[2][3]。
経歴
[編集]黄初元年(220年)、長水校尉の戴陵は文帝・曹丕が度々狩猟を行うことを諌めたため怒りを買い、誅殺されかかるが死一等を減ぜられた[4]。
太和五年(231年)、蜀漢の諸葛亮が天水(現在の甘粛省天水市一帯)を攻めた際、曹叡に派遣された司馬懿に従い戴陵は征蜀護軍として車騎将軍張郃、後将軍費曜、雍州刺史郭淮らとその迎撃にあたった[1]。戴陵は司馬懿の命で費曜とともに4千の精兵を率いて上邽を守備し、司馬懿は残りの兵を率いて蜀軍に包囲された祁山を救うために出陣した[5](祁山の戦い)。
三国志演義
[編集]三国志演義においては第99回において、司馬懿の命で張郃の副将として祁山に布陣し[6]蜀軍を奇襲しようとして失敗し張郃に救出されている[7]。第100回では諸葛亮に敗れ楽綝・張虎とともに蜀軍に囚われ裸にされた上で体に墨で落書され自軍に送り返されるという侮辱を受けている[8]。
また、1994年に中国で公開された中国のテレビドラマ・三国志演義においても演じた人物は不明だが第72話「司馬懿、大都督に登る」と第73話「祁山での智の攻防」に張郃に付き従う武将として戴陵が登場している。
参考資料
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 晉書 卷一帝紀第一 (中国語), 晉書/卷001, ウィキソースより閲覧。 - 明年,諸葛亮寇天水,圍將軍賈嗣、魏平於祁山。天子曰:「西方有事,非君莫可付者。」乃使帝西屯長安,都督雍、梁二州諸軍事,統車騎將軍張郃、後將軍費曜、征蜀護軍戴淩、雍州刺史郭淮等討亮。張郃勸帝分軍住雍、郿為後鎮,帝曰:「料前軍獨能當之者,將軍言是也。若不能當,而分為前後,此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進軍隃麋。亮聞大軍且至,乃自帥眾將芟上邽之麥。
- ^ 魏公卿上尊号奏
- ^ 「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性 渡邉義浩 - 4P
- ^ 三國志 魏書·文帝紀 (中国語), 三國志/卷02, ウィキソースより閲覧。 - 黃初元年十一月癸酉(中略)是歲,長水校尉戴陵諫不宜數行弋獵,帝大怒;陵減死罪一等。
- ^ 三國志蜀書五 諸葛亮傳 (中国語), 三國志/卷35, ウィキソースより閲覧。 - 《漢晉春秋》曰:亮圍祁山,招鮮卑軻比能,比能等至故北地石城以應亮。於是魏大司馬曹真有疾,司馬宣王自荊州入朝,魏明帝曰:「西方事重,非君莫可付者。」乃使西屯長安,督張郃、費曜、戴陵、郭淮等。宣王使曜、陵留精兵四千守上邽,餘眾悉出,西救祁山。
- ^ 三國演義 第九十九回 諸葛亮大破魏兵 司馬懿入寇西蜀 (中国語), 三國演義/第099回, ウィキソースより閲覧。 - 蜀漢建興七年,夏四月,孔明兵在祁山,分作三寨,專候魏兵。卻說司馬懿引兵到長安,張郃接見,備言前事。懿令郃為先鋒,戴陵為副將,引十萬兵到祁山,於渭水之南下寨。
- ^ 三國演義 第九十九回 諸葛亮大破魏兵 司馬懿入寇西蜀 (中国語), 三國演義/第099回, ウィキソースより閲覧。 - 說張郃、戴凌領兵前來,驟如風雨。馬忠、張嶷、吳懿、吳班四將接著,出馬交鋒。張郃大怒,驅兵追殺。蜀兵且戰且走。魏兵追趕約有二十餘里,時值六月天氣,十分炎熱,人馬汗如潑水。走到五十里外,魏兵盡皆氣喘。孔明在山上把紅旗一招,關興引兵殺出。馬忠等四將,一齊引兵掩殺回來。張郃、戴凌死戰不退。
- ^ 第一百回 漢兵劫寨破曹真 武侯鬥陣辱仲達 (中国語), 三國演義/第100回, ウィキソースより閲覧。 - 司馬懿回到本陣中,喚戴陵、張虎、樂琳三將,分付曰:「今孔明所布之陣,按休、生、傷、杜、景、死、驚、開八門。汝三人可從正東生門打入,往西南休門殺出,復從正北開門殺入:此陣可破。汝等小心在意!」於是戴凌在中,張虎在前,樂琳在後,各引三十騎,從生門打入。兩軍吶喊相助。三人殺入蜀陣,只見陣如連城,衝突不出。三人慌引騎轉過陣腳,往西南衝去,卻被蜀兵射住,衝突不出。陣中重重疊疊,都有門戶,那裡分東西南北?三將不能相顧,只管亂撞,但見愁雲漠漠,慘霧濛濛。喊聲起處,魏軍一個個皆被縛了,送到中軍。孔明坐於帳中,左右將張虎、戴陵、樂琳並九十個軍,皆縛在帳下。孔明笑曰:「吾縱然捉得汝等,何足為奇!吾放汝等回見司馬懿,教他再讀兵書,重觀戰策,那時來決雌雄,未為遲也。汝等性命既饒,當留下軍器戰馬。」遂將眾人衣甲脫了,以墨塗面,步行出陣。