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戸叶薫雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戸叶 薫雄(とかの よしお[1] / しげお[2]1872年12月24日明治5年11月24日[3][4][5])- 1917年大正6年)9月26日[2][6])は、明治後期から大正期の新聞編集者、実業家政治家衆議院議員。旧名・初五郎[4]田中正造の後継者と目された人物[1]

経歴

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栃木県[2]安蘇郡長谷場村(野上村長谷場[5]田沼町を経て現佐野市長谷場町)で、戸叶庄造の長男として生まれる[4]。1885年(明治18年)2月、家督を相続し薫雄に改名した[4]栃木師範学校で学んだが教師と対立して退校[1]。1896年(明治29年)自由民権思想の普及のため政治小説『想夫恋』を出版[1]。1898年(明治31年)7月、東京法学院(前身英吉利法律学校、現中央大学)を卒業し、1899年(明治32年[注釈 1])7月、日本法律学校(現日本大学)を卒業した[1][2][5][6]

1884年(明治29年)4月から野上村助役を3年間務めた[2][5]。その後、銀行勤務を経て[5]、1907年(明治40年)3月、大韓帝国に渡り京城商業会議所書記長となり[2][5][6]、大韓日報[注釈 2]社長も務め、朝鮮の植民地化に反対したが、新聞の発行停止と退韓命令を受けた[1]。1910年(明治43年)日韓併合後に帰国し、下野新聞社長、下野印刷社長などを務めた[1][2][4][5][6]

田中正造の死後、その後継者と目され[1]、1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に栃木県郡部から無所属で出馬して当選[1][7]。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙憲政会所属で出馬して再選され[1][8]、衆議院議員に連続2期在任したが[2][6]、同年9月、議員在任中に死去した[1][9]

著作

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  • 東崖散史『想夫恋』戸叶薫雄、1896年。
  • 楢崎観一との共著『朝鮮最近史 : 附・韓国併合誌』蓬山堂、1912年。

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』421頁では明治31年。
  2. ^ 『人事興信録 第4版』と7頁、『現代日本の政治家』公友倶楽部18頁では朝鮮日報。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『栃木県歴史人物事典』421-422頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』421頁。
  3. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、10頁。
  4. ^ a b c d e 『人事興信録 第4版』と7頁。
  5. ^ a b c d e f g 『現代日本の政治家』公友倶楽部17-18頁。
  6. ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』301頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』53頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』87頁。
  9. ^ 『官報』第1549号、大正6年9月29日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。