戸次親延
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戸次親延(べっきちかのぶ、明応3年(1494年)?-天文20年(1551年[1])は戦国武将。豊後国の戦国大名大友氏家臣である戸次氏の一族。諱は親延。通称は右馬助、治部太夫、治部少輔。法名は玄清義山。戸次親貞(丹後守)の五男にあたる。兄弟に戸次親宣、戸次親就(但馬守)。子は戸次親繁。戸次親家の叔父で立花道雪の大叔父にあたる。
戸次系図によると、永正8年8月23日(1511年9月25日)17歳の時、室町幕府将軍足利義稙に属す、船岡山の戦いに先鋒として細川政賢の軍陣を破ると功を上げ、感状や刀など恩賞を貰った。
天文20年(1551年)に肥前国小坂の戦いで戦死する。親延の家督は弟の戸次親就が継ぎ、実子の親繁は親就の養子となった[2]。
脚注
[編集]- ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」の立花八次郎系譜。同書の立花小七郎系譜では天文19年(1550年)戦死。
- ^ 「柳河藩享保八年藩士系図・下」の立花八次郎系譜の親就の記述に『兄親延之嫡男親繁ヲ為養子家ヲ継』とある。
参考文献
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