戸沢正胤
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政4年12月10日(1793年1月21日) |
死没 | 安政5年7月13日(1858年8月21日) |
改名 | 金太郎(幼名)、正胤 |
別名 | 正礼(別名) |
戒名 | 賢徳院義翁仁道 |
墓所 | 東京都港区三田の常林寺瑞雲院 |
官位 | 従五位下、大和守、右京亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽国新庄藩主 |
氏族 | 戸沢氏 |
父母 | 父:戸沢正親、母:美直院 |
妻 |
正室:伊与姫(蜂須賀治昭の養女・実妹) 側室:八重、菊之江、花枝 |
子 | 正賜、正令、正啓(三男)、正紀(四男)、正彬(五男)、お晋(土井利忠正室)、お透(松平信宝室)、たか(楢岡光村室)、とも(本堂親民室)、楢岡信之助 |
生涯
[編集]寛政4年(1792年)12月10日、第8代藩主・正親の長男として生まれる。寛政8年(1796年)の父の死去により家督を継ぐ。藩財政を再建するため、文政元年(1818年)に国産方を設置して織物業の奨励・振興に尽力し、亀絞織を創始した。そのほかにも困窮者の救済にあたっている。
文化11年(1814年)に、家臣の八柳極人による八柳騒動が発生し、八柳極人、馬之丞父子を斬罪に処している[1]。
天保11年(1840年)3月18日、家督を次男・正令に譲って隠居した。
しかし正令が天保14年(1843年)に早世したため、孫の正実を第11代藩主となし、自らは幼少の正実を補佐している。安政5年(1858年)7月13日に死去した。享年67。
系譜
[編集]父母
- 戸沢正親(父)
- 美直院 ー 側室(母)
正室
側室
- 八重
- 菊之江
- 花枝
子女
- 戸沢正賜(長男)
- 戸沢正令(次男)生母は伊与姫(正室)[要出典]
- 戸沢正啓(三男)
- 戸沢正紀(四男)生母は菊之江(側室)
- 戸沢正彬(五男)生母は菊之江(側室)
- 楢岡信之助
- お晋 ー 土井利忠正室
- お透 ー 松平信宝室、生母は菊之江(側室)
- たか ー 楢岡光村室、生母は花枝(側室)
- とも ー 本堂親民室、生母は菊之江(側室)